2013年12月22日日曜日

「ギャング・オブ・ニューヨーク」 暴力に涙する



神と暴力のミックスジュース監督、マーティン・スコセッシ、渾身の一作!

ギャング・オブ・ニューヨークは、たくさんの人間が登場する大作だ。
その映像のスケール感(金のつぎ込み様)、アメリカ建国の怒濤の時代の中に生きた人間の大河ドラマも圧巻だが、なんといってもこの映画がいいのは、見る者をそこに描かれる暴力に惚れさせてしまうところである。

この映画では、人はチャラチャラ殺したり、殺されたりはしない。
このギャング・オブ・ニューヨークの登場人物にはそれぞれの正義があり、まさに命を掛けて戦い、そして生きている。
映画は闘うことに真摯に向き合い、生きるために暴力を使う。
そこは、闘わなくては生きていけない時代なのだ。
暴力は、生きるための術であり、且つ深い敬意が払われている。
だから映画に登場する人々の暴力を肯定してしまえる。
暴力に満ちた世界が、美しくさえ思えるのだ。
この気持ちは、反社会的なものなのだろうか?

現実の世界で、生き物は、全て生きるために厳しい競争に勝ち残らなくてはならない。
なのに同時に、私たちは、暴力はいけない、仲良く、平和でなければいけない。
もちろん平和は価値あるものである。
しかしながら、その時代や場所によっては、暴力100%NGとはっきり白黒つけた考え方では生き残れない。
平和の裏側、底辺には、必ず暴力がある。
このギャング・オブ・ニューヨークは、格好をつける形だけの暴力とは違い、戦いに挑む潔さがある。
人は時に平和を手にするために、もしくは家族や仲間を守るために暴力を使わなければならないのだ。
それを誰も完全に否定できない。
人はイエス・キリストのように左の頬も差し出せないから、祈り、自分の罪に懺悔する。
暴力はよいことではない。でもやはり必要な時もある。
人には戦かわねばならない時がある。
世界の法則に沿って、戦いに勝ち、強い者として生き残り、子孫を未来へ繋ぐ必要がある。
僕らは平和と暴力が相対するグレーの世界に生きているのだ。


僕自身のことを考えれば、人とちゃんと喧嘩できないまま大人になってしまった。
だがらよくも悪くも他人と喧嘩をして育ってきた人を見ると、ちょっと憧れの大人に見える。
喧嘩をすれば勝ったり負けたりする。その勝敗は、時に恍惚となったり、痛みや挫折でやるせなくなったりするだろう。ただイメージとしてそんな暴力について思いを巡らせられても、身体では理解できない。暴力は頭でなく身体でしか覚えられないのだ。
そんな喧嘩とは、男が大人になるための通過儀礼のようにさえ思える。
だから一層、こんな清く闘う男たちの世界に憧れてしまう。

この映画での戦いの中心は、主人公のレオナルド・ディカプリオと、子供の頃我が父を殺した宿敵、ダニエル・デイ=ルイスにある。
父への復讐を誓い大人になったディカプリオは、ダニエル・デイ=ルイスを殺すチャンスが幾度も訪れる。
しかし彼を殺すことができず、親近感と緊張感がどんどん増幅していく。
ディカプリオは、自分の父を殺した宿敵に、惹かれしまっているのだ。
やがてダニエル・デイ=ルイスも、ディカプリオが復讐のために自分に近づいた宿敵だと気付き、堂々と正面から戦いを受ける。
男なんだよね!
戦いは手下など他人にはやらせない。自分で決着をつける。
この映画は、将に男が男に惚れる映画だ。
ディカプリオもいいが、敵役のダニエル・デイ=ルイスが本当にしびれる。
そんなしびれる男同士のラストは、互いにガチで正面から戦うのだ。
やはりしびれる映画の、男同士の最後の戦いは、一対一のタイマンなんですよね。
しかし、そんな無骨に戦う彼らの傍らで、時代が激流のごとく押し寄せ、流れ、彼らは時代に置き去りにされ消えていく。
そのラストの虚無感の演出も、またしびれるストーリーなのだ。
タクシードライバーでの、孤独から発したいたたまれない狂気の暴力から、いい意味でも悪い意味でも大人になったマーティン・スコセッシの暴力。
僕の中のスコセッシのアカデミー賞は、(傑作のリメイク映画でなく)このギャング・オブ・ニューヨークで決まりです!

己の正義を問い直したい時 ───
誰かと戦いたい時 ───
ライバルと競っている時 ───
喧嘩に負けた時、上司にいびられた時、友達にいじめられた時 ───
そんな時は、身体でも鍛えよう!!!
そして、鍛えながら、映画でも見よう!
そう、映画は、このギャング・オブ・ニューヨークだ。
そして、スコセッシの映画のモチベーションである、暴力と神のミックス描写の頂点を目撃すべし。

さあ、暴力に涙したいなら、「ギャング・オブ・ニューヨーク」にしやがれ!

追記
本作は、2002年のアカデミー賞にノミネートされたが、何も受賞はならず。残念。そして数年後、2007年、マーティン・スコセッシ監督は「ディパーテッド」で作品賞、監督賞を受賞する。(「ディパーテッド」はオリジナルの傑作「インファナル・アフェア」を見てから見ると、なんだか哀しい)主演のレオナルド・ディカプリオとは、ほか、2004年「アビエイター」(辛い話だが割と好き)、2009年「シャッター・アイランド」(この映画は何故やろうと思ったのか謎)と組んでいて、タッグ5作目は、2013年「ウルフ・オブ・ウォールストリート」となる。この映画は、これまでのディカプリオとは毛色が違って、悪のりC調ぽっくて期待中。さて、ディカプリオとスコセッシのタッグここまでいくと、デーニロとのタッグ数(2012年現在で8作品)を越えるのを狙っているのか!?なんて思ってしまいますね。楽しみ。ほほほ。


2013年12月10日火曜日

「サクリファイス」世界を救うための敬虔な祈り



明日、世界が終わるとしたら、私たちはどうするだろう?
もしその世界の終わりを自分を犠牲にすることで防ぐことができるなら、自分は立派にその使命をやり遂げることができるだろうか?

サクリファイスは、突如戦争が勃発した日のあるありふれた田舎の一家を描く。

映画のタイトルは犠牲。
監督のアンドレイ・タルコフスキーが描く犠牲は、アルマゲドンのような英雄的なものではない。
戦争について詳細は一切語られない。描かれるのは世界の終わりに対峙して、戸惑い嘆きうろたえるごく一般の人たちである。
主人公の一家も世界の終わりが来たとおののき、打ち拉がれる。しかし主人公は自分の子供、そして世界の人を救うために魔女だと噂される女に知恵を求め、やがて救済の生贄として自分の家に火を放つ。
彼は狂ったのか、それとも世界を救おうとする聖人なのか。

この映画には普通の映画にはない、何かが宿っている。
タルコフスキーの映画、、、それは神を宿した「聖なる映画」だと僕は思う。
人は、人々の罪を背負いを救うために死んだイエス・キリストのように生きれるのか?
タルコフスキーはそんな大いなる問いを問い続けた人間だった。
しかし当然普通の人間はイエスのように生きれない。
でも、それでも人間にはイエスのように生きれる魂を、どこかに秘めているのではなかろうか。
それがタルコフスキーの願いであり、描きたいことであったように思えてならない。

サクリファイスの主人公が神に対してとつとつと救いを求め語り祈る長回しのシーン───
主人公が、まるで見ている私たちに救いを求めているような錯覚を覚える。
あまりに切実な願いに、何もできない我々は逆に戸惑い、あまりの緊張感に耐えられなく、逃げ出したくさえなる。
その大真面目な祈りに身の毛がよだつ。
タルコフスキーの映画は全てが神への畏敬の念と、深い、恐ろしくどこまでも深い愛に満ちている。
映画を見終わった直後、自分の日常の些末な欲望がチリチリと焼けて消滅してしまう。
普段の自分はなんて細かくてつまらないことにぐじぐじしているのだろう。
自分や家族、周囲の仲間はもちろん、世界に役立つために自分に何ができるか?
を真剣に考え、実行するべきなのだ。
聖書が単なる書物ではないように、タルコフスキーの映画は単なる映画ではない。
タルコフスキーは、映画を、人々の感情を揺り動かすドラマの枠を超えて、心よりどころとなるような聖なるものへと高めようとしていたのではないか。

サクリファイスを見た後は、見る前とは違う人生を歩まなければならない。
でもそれは簡単ではないだろう。
私たちは、例えイエスの決断が素晴らしいと感じていても、イエスのようには生きれない。
私たちを突き動かすこのイエスの決断とはかけ離れた日々の欲望を否定はできない。
その欲望こそ人間が生きる源だからだ。
タルコフスキーだって完全聖人ではないだろう。
だからこそタルコフスキーは深い愛を込めて映画を撮り続けた。
タルコフスキーはまさに命を削って映画に命を吹き込み、神に召され若くして死んだ。
タルコフスキーの映画は娯楽とか芸術とかを越えている。
生や人生を問う手段。
まさしく敬虔な祈り。
タルコフスキーの命、祈りそのものなのだ。
だからタルコフスキーの映画は、映画自体が生きて、静かに鼓動を打っている。
フィルムを切れば血がしたたり落ちてくるだろう。
まさに魂が宿った映画だ。

もしあなたが日々の業に埋もれてしまっていたら、一人落ち着いた時間を作って、じっくりとタルコフスキーの映画を見てみて欲しい。
時には大真面目になって、日頃の業を洗い流し、人間が生きることについて静かに想いをはせたい。
そんな時はまず、自分が世界を救うために何ができるかを問いかけてくる、「サクリファイス」にしやがれ!

2013年12月5日木曜日

「ヴァン・ゴッホ」 静かにうねり燃え尽きる情念



フィンセント・ヴァン・ゴッホ ───。

生前と死後で、これほど評価の落差が激しい人間はそういないのではないだろうか。
今や世界中で誰もが知る画家は、生涯で描いた3000枚の絵のうち、生前売れた絵はたった1枚とも言われている。
芸術家にとって、生み出した作品が誰にも評価されないという現実ほど、創作活動を続けていくのに過酷で恐ろしい状況はないであろう。
そんなフィンセント(敬意を示すため姓でなく名前で呼んでみる)の人生が、言い知れぬ深い絶望や孤独に苛まれたものであったと想像に難くない。
実際にフィンセントは、自分の絵に対する信念が周囲に受け入れられず、錯乱し、自ら精神病院に入院した時期もあった。
だがそれでもフィンセントは、約10年間、自ら命を絶つ間際まで絵を描き続けた。
彼は、評価されずとも、自分の絵に、誇りと信念を持ち続けていたのだろう。
そうでなければ、3000枚の絵を描き続けることなどできないに違いない。
画家は絵を描くことこそ、生きることそのものだ。だから生きるためには、評価されなくても絵を、描き続けなければならない。もう、どうしても絵が描けなくなてしまう瞬間が訪れてしまうまで。。。


この波乱に満ちたフィンセントの人生は、きっとどこを切り取っても映画になるだろう。
フィンセントの生活、金銭面を援助し続けた画商の弟、テオとの関係。
画家の信念を戦わせ友情を築き上げようとしたゴーギャンとの蜜月と破局。
労働者をモチーフにした重々しいオランダ時代を脱し、印象派の技術を磨いたパリ時代、そしてフランス南部のアルルでの色彩の開花。更に、色彩が溢れ、うねるような情念のタッチを作り出した死までの道のり。
この映画は、そんなフィンセントが、アルル〜サン・レミを去り、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズを訪れた、死に至る最後の2ヶ月間を切り取った作品である。

この映画で描かれるフィンセントは、炎の人ゴッホというイメージからかけ離れるほど静かで、人間味やユーモアがある。
僕が思い描いていたフィンセントのイメージは、震え立つ情念を押し殺した無骨で無口で堅物の男のイメージだった。
(未見だが、カーク・ダグラスが演じた映画のゴッホはそんな雰囲気に近いかもしれない)
なにしろ、フィンセントが残した絵の荒々しいタッチとあふれる色彩が醸し出すパワーや情熱が、10年間ほとんど評価されずとも絵を描き続けたという事実と重なることで、その絵にかける情熱の熱さと大きさが、より尋常ではないと想像できるからだ。きっと本人は、その情熱の炎が後光のようにその背面で絵筆のタッチのようにメラメラ燃えているような人だろうと勝手に想像が膨らんでいた。
だが、この映画のフィンセントは、少々変わっているところもあるけれど、一見どこにでもいそうな物静かなごく普通の人に見える。
しかしその肩すかしを食らったような静けさが、実は崖っぷちすれすれに追いつめられていた境遇から発せられるものだと判ってくると、逆に何気ない日常の中だからこそかえって、無言の緊張感が見る者に避けがたい重みを与えてくる。
フィンセントが秘める重圧、恐怖、絶望、孤独。
やがてフィンセントの心は、このオーヴェルの地に来た時点で、もはや死と生とのギリギリを彷徨っていることに気付き、身体が強ばる。
映画で、フィンセントが無言の叫びを発している。
フィンセントの心の奥に秘められた叫びを、この映画は静かに語りかける。その叫びだけを察するだけの映画だと、きっと映画を正視することに居たたまれなくなるだろう。だから、映画は絵を描いている時間と同様に、周囲の人たちとのユーモアある交流を見せる。

ほっとさせるのが、フィンセントを支援してくれる医師のポール・ガシェの家族や弟テオ夫妻とのランチシーンだ。
ガッシュやフィンセントが組んで皆を笑わせる瞬間が、過酷な境遇の中にも人間には必ずユーモアがあることをさりげなく見せてくれる。

また圧巻なのは、パリに行き、弟テオと生活費の負担のことで仲違いした夜、カフェ(パブ?)で、みなと酒を飲み乱痴気騒ぎをして過ごす一晩の描写だ。
(フィンセントは、アルル時代、有名な「夜のカフェ」を描いたとき、「カフェは人を破滅させることも発狂させたり犯罪者にさせたりすることもできる場所であることを表現したかった」と語っている)
弟のテオ、そして娼婦や、肉体関係を持ったガシェ医師の娘マルグリット(この関係は映画の創作らしい)たちと一組づつ腕を組んでステップを踏み、やがて全員がつながり一列に並ぶダンスが、圧倒的に素晴らしい。この時代に生きている人達の、些細なこと、重大なこと、その全てをひとまず棚に上げて、ただただ無心に踊る、その生の瞬間に圧倒され飲み込まれる。
更にその後、フィンセントに訪れる朝、まだ生きている恐怖。マルグリットとオーヴェルに戻る列車の中で、生きることも死ぬことも絶望でしかないその身に、孤独と重圧が一気に押し寄せて来る。

とにかく映画はフィンセントの境遇を細かく説明しない。
だからフィンセントの無念の叫びが聞こえなければ、乱痴気騒ぎをしたフィンセントが、何故拳銃で自分の腹を撃ったのか判らないだろう。
人生は辛いことだらけかもしれない、それでも生きた、最後もう情念の絵筆を走らせられなくなるぎりぎりまで。
フィンセントの悲痛だけれども、人を揺り動かす多くの傑作を描き続けた人生に敬意を示し、その秘めた情念の生き様を静かに見せてくれたこの映画と、それを日本で上映してくれた(追記1)人たちに心から感謝したい。

もし人生に絶望にする時があれば、この映画のフィンセントを見て、死ぬまでは己の信念を持ち続け、やり続ける勇気を学べるかもしれない。
震え立つ情念を静かに持ち続ける人間の生き様に圧倒されたければ、この「ヴァン・ゴッホ」にしやがれ!


追記1
本作品、監督はフランス人のモーリス・ピアラ。制作と公開は1991年。それからおよそ20年の月日を経て、イメージフォーラムで監督の没後10周年を記念し本邦初公開された。

追記2
少々わがままをいえば、このフィンセントが最後にたどり着いた絵画の境地=つまり、うねる荒々しい絵筆のタッチをふんだんに使って絵を描く行程が見たかった。唯一キャンバスをアップで追うショットは、筆ではなくてペンティングナイフが使われていたが、フィンセントは実際ペンティングナイフも使っていたのだろうか?
ちなみに現代絵画では、モチーフは正確にデッサンされていなくても(つまりフォルムが狂っていても)絵画として認識してもらえるが、フィンセントの印象派〜ポスト印象派の1800年代後半の時代はまだデッサンの正確さが絵画のよさを決める重要な指標であったのだろう。だからフィンセントのデッサンが崩れた(象徴的なデッサンの)絵は、当時は前衛過ぎて、多くの人に理解されず、ただ下手くそに見られがちだったと想像できる。この映画の中でも、頭の弱い青年に気が進まずに肖像画を描いてあげたら、僕はこんな耳をしてないと文句を言われてしまう。そんな弱者にさえ否定されてきた哀しみがフィンセントの絵にはある。

追記3
最後のフィンセントの自殺のシーンが、とにかく物悲しい。映画中盤で一人部屋で拳銃を頭に当てるシーンもあるが、この最後の時は、屋外で自分の腹に打ち込んだ。だからフィンセントは数日生きている。狭い下宿部屋のベッドに寝かされて、皆が起きると死んでいる。その無惨で美しくない死に様がフィンセントの苦悩を深く表している。
また映画はこのフィンセントの死で終わるが、このヴィンセントが死んで1年後に弟のテオも亡くなっていることは全く感慨深い。



2013年11月7日木曜日

「オン・ザ・ロード」胸が熱くなる破滅的で美しい青春


ビートジェネレーションの傑作、ジャック・ケルアックの小説、"路上"「オン・ザ・ロード」が映画化された。

この50年代に一斉を風靡した伝説の小説 ───。思い返せば 20代の頃、すすめられ読んでみたが、読みにくくて途中で挫折しそのまま放置してしまった本である。あの伝説の小説が映画化された!しかもプロデューサーは、フランシス・フォード・コッポラ!うむー。
若いうちに読むべき本を若いうちに読み損ねてしまった口としては、今さらだが、映画は見逃してはならないだろう。と勇んで映画館へと向かう。

しかし、50年代の古い小説が、何故半世紀以上を経た今頃になって映画化されるのだろう?
それは小説を開いてみれば、想像に難くない。
小説には、当時の時代の若者の疾走感が、決まった筋立てはない中で、落ち続ける滝のような文章でつづられている。
映画化の方法論は沢山あるかもしれない。けれどもこのような小説を、ミッションを受けそれを達成するような手法が基本である映画に昇華させるのは、正に困難な仕事に違いないのだ。だが、その困難な仕事を克服し、映像化して残すことこそ映画人の使命でもある。
出版後、映画化権を得たコッポラは、きっとその困難な使命を諦めず、コンコンと練り続け、そして「モーターサイクル・ダイアリーズ」の監督、ウォルター・サレスと半世紀以上を経て遂にその難産をようやく成し遂げたのであろう。映画の神様は将に映画的だ!
では、映画ファンにできることはなにか。そうだ、善きにしろ悪きにしろ、その映画をその瞬間、眼に焼き付けることくらいなのである。

しかし、この映画は始まるや否や、再び挫折してしまうのではという一抹の懸念を壮快に吹き飛ばしてくれる。
確かにこの映画は、確固たるストーリーを持ってはいない。だが、力強くエモーションを喚起し続ける奇跡のような映画であった!
おお、一時代を作った小説が、また映画の傑作として甦るとは、こんなに嬉しいことはない。
映画からはいきなり、1940年〜50年代という終戦直後の人々の生きようとする時代の空気が、むんむんとわき立ち、見る者をその渦の中に一気に巻き込む。
そこには、生きるという瞬間、瞬間が、映像に刻まれている。その瞬間一つ一つには、深淵なる意味はないかもしれない。だが、とにかく人が生きているのだ。
原作の詩のような語り口を、映画という表現に見事具象化した監督はじめスタッフ、出演者の尽力に心から感謝したい。本当、これは映画好きには必須の作品です。

映画は、一言で言えば「破滅的な生き方しかできない男に魅せられ、共に路上放浪する話」である。
主人公の小説家、サルが魅せられる、その破滅的な生き様のディーン(ギャレット・ヘドランド)が、とにかく圧巻だ!
凄い面白い奴がいるんだよ。とサルは友人に誘われて、そいつの家に押し掛けた。ドアを開けると、フルチンで出て来る男がいる。それが噂のディーンだ。女とセックスしていたのだ。女とセックスしているのに、それをやめてドアを開けるなんて、なんて憎めない男だ。(彼はその後でもいつでもフルチンでドアを開けてくれる!)しかも家に招き入れるなんて、いい奴なんだよ。(入る方も入る方だけど)女だけでなく、男も惚れてしまうような、生かした男前。でも、まともじゃない。この無遠慮さが、なんともたまらない。サルはその瞬時にこの破滅的な生き様のディーンに魅せられ、旅が始まるのだ。欲望の赴くまま、セックスしたい時にし、ふざけて笑い合い、飲み、放浪し、ばか騒ぎを繰り返す。自堕落に、そして情熱的に ───。

若者の時は、人の迷惑なんて考えないし、何をやっても怖くなかった。何が悪くて悪くないか知らなかったし、行動がどんな結果を招くかいちいち気にしなかった。とにかく気のむくまま、何のしばりもなく、好きな時間に起きて、好きなものを食べ、好きなことをして、好きなだけ寝ていた。僕はこの映画の登場人物のように全然格好よくないし、社交的でもない。けれど確かに、浅はかながらも熱いものがあった。そんな自分の若い時のバカバカしき日々を思い起こして熱くなる。

映画を見ていると、彼らはとことん遊んでばかりでうっとりする(一応時々仕方なく?日雇い仕事をしているのがまたよい)。
このサルたちを突き動かすものは何だろう。
サルは生きることに飢えているのだ。何故生きるのか、身体を持って、体験しようとしている。確実に生きてることを確認するべく刺激を求める。
サルやディーンがキラキラしているのは、生の刺激を一杯に受け、思い切り生を謳歌している。思う存分生きてるからなのだ。世界は未知なるもので満ちていて、いくら生きても飽くことはないのだ。
しかし、当然終りが来る。好き勝手をしていられるのは若いうちだけだ、やがて人は結婚したり、仕事や家族を持ったりして、自分以外の人のために、社会のために生きる必要が出てくる。サルもそうだ。だが、ディーンは、その自然な流れに乗ることができない。もしくは流れに逆らって生きることしかできない。
だから最後の瞬間まで高まる疾走感を終え、突然やって来る哀しいラストの焦燥感に、再び胸が熱くなる。

映画が終り、映画館を出て、20年以上に座り込んだことのある、汚れた新宿の路上を家路に向かって急ぐ。
いつからか、彼らのような衝動がなくなってしまったように思える。
つまらない大人にはなりたくない ───と、学生の時にいつも聞いていた佐野元春の歌が、僕の頭の奥でなり響いた。
そう、僕はもう立派な大人だ(少なくても年齢や立場は)。だがつまらなくない大人にいつなれるのだろう。ちゃんとした中味のある大人にいつなれるのだろう。
そうだ、だからもっともっと生きなければならない。衝動を持って。情熱を持って。

生きていることに熱くなりたかったら ───
生きてることを思い出したかったら ─── そう、この「オン・ザ・ロード」にしやがれ!



追記1:
本作が誕生するまでの制作秘話も面白い。もともと作者のジャック・ケルアックは、ディーン役をマーロン・ブロンドに直接打診したそうだ。またコッポラが映画化権を得て、映画化できるまでの30年間、ディーン役には、ブラッド・ピットやコリン・ファレルの名があがったらしいが、企画が流れてしまった。どんなに気にいった脚本や企画でも、歳をとってしまっていたら、若きディーンを演じることができない。そう思うと若かしり日のブラピ版のディーンも実に見てみたと感慨深くなる。

追記2:
途中で登場するスリムゲイラードというミュージシャンが凄い!



2013年11月3日日曜日

「セブン」狂気への誘惑、そしてあまりに深い絶望


何故、この映画は、恐ろしく残酷でむごたらしい話なのに、こんなにも惹かれてしまうのだろう。。。

犯人は人を殺すことを楽しむサイコパスだ。
その犯行は、あまりに残虐で反社会的な行為である。
そして救いようがなく、悲劇的で惨たらしい結末。
本当に全くもって辛い酷い話なのである。
だけれども、僕はこの映画が好きだ。
何故なのだ!?

もちろん、この映画の美しい映像に惹かれる。

まずは冒頭の犯人の狂気を予感させるオープニング。細かい字でびっしりと埋め尽くされていく手書きの紙。その紙の一枚一枚を紐で編んでゆく傷だらけの指先。髪の毛やカミソリなどのクローズアップ。そこにスクラッチされるクレジット。それらカットの断片がわざと見えづらく神経質にモンタージュされていく。。。1995年の公開当時、このカイル・クーパーのタイポグラフィーは、映画のタイトルバックの作り方を革命したエポックメイキング的なものだった。

そして暗いニューヨークの路地裏、じとじとと降りしきる雨。汚れてカビ臭い建物の中で起きる薄気味悪い殺人事件。暗がりに緑のデスクライトがおぼろげに並ぶ図書館の静寂とそこに流れるG線上のアリア。古典の書物から拾われていく深淵な言葉。地下鉄の振動で絶え間なく揺れている部屋。などなど。。。それらシーンが、レンブラントの絵画のような光と陰のコントラストの強い映像で積み重ねられてゆき、閉塞感や緊張感を増していく。実にうまい。

また、淡々と語られるストーリーにも引き込まれる。

殺人課に新任した正義感に燃える血の気が多い刑事のミルズ(ブラッド・ピット)と、退職を1週間後に控えた寡黙で老獪なサマセット(モーガン・フリーマン)が、事件現場の謎をしたたかに解き明かしていくミステリー。そして、頭脳派の犯人が、より上手に追跡のヒントを現場に残しながら予告通り殺人を成し遂げていくスリラー。更に、犯罪に秘められた七つの大罪という人間の原罪を裁く深淵なテーマ。
ラストあっと驚く脚本と、そこに到達させるエモーショナルを完璧に具象化した完璧主義のデイビッド・フィンチャー監督。全てが素晴らしい。

だが、この映画が、単に怖くてハラハラする面白い話だけでなく、心に突き刺さって残るのは、犯人の恐ろしい狂気にいつか惹かれてしまうところだろう。
この映画を見ていると、全く不謹慎な話なのだが、正直、犯罪者を暴きたいという欲求と共に、この犯人が、ミルズたちの追跡を逃れ、見事7つの大罪(暴食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、妬み、憤怒)の殺人を完璧に成し遂げることに、いつか期待してしまっている。
その瞬間、自分も狂気という悪魔に魅了されていることを否定できない。
この映画は、犯人と同様に、どんな人にも秘められた"狂気"を揺り動かし、まさに人の”大罪”を暴き、問う物語なのだ。

その"狂気"に魅せられる一番の代表者が、この映画の主人公、ミルズだ。
彼の狂気は、犯人を捕まえるという行為の虜になること。
この、ミルズの犯人を捕えるという闘志、好奇心、それこそが犯人のジョン(ケヴィン・スペイシー)、もしくは物語の作り手がが仕掛けた恐ろしい罠なのだ。

この追跡にのめり込んだ代償、それはミルズにとって最も大切な人、妻の死だ。
犯人のジョンは、ミルズの最愛の妻を殺す。
しかし、そのジョンの殺人を招いたのは、ほかならぬジョンを追跡したミルズ自身だったのだ。
犯人を見つけ出し捕えるという自分の仕事が、我が妻の死を招いてしまった。
自分がその衝動にのめり込んだばかりに、妻は悲惨にも死ななければならなかったとは。。。

妻を守るべき自分が、全く逆の行動をとっていて、それが、取り返しのつかない恐ろしい結果を招いたこと。そこに気付いた瞬間、これほどの絶望があるだろうか。
ミルズは、サマセットの制止を振り切り、ジョンを撃ち殺す。
最後に残った大罪「憤怒」である。
七つの大罪の殺人は、ミルズによって完結し、全ての裁きが成し遂げられた。。。
ミルズは、確かにジョンを捕らえることはできた。しかし、全てはジョンの思惑通り。この狂気のゲームに勝ったのはジョンだったのだ。
犯人は裁かれて死んだ。だが最後に残るのは、ただただ、深い絶望である ───。

これはジキル氏という自分の中の、ハイド氏の存在証明が行われる映画である。
人は、主人公と共に、自分の中のハイド氏の息遣いに気付く。
実は密かにハイド氏の狂気に魅惑を覚える自分がどこかにいるのだ。
自分の中の悪魔、狂気に気付かせる映画。。。
この映画は、全くもって危険で、挑戦的な映画だ。
これは、自分の中に潜む、悪、狂気に対峙するための、己の挑戦なのだ。
誰しもが秘める人間の大罪に対してどう対峙するかが投げかけられる。

自分の中で寝むっている狂気が、ぞぞぞと動き始める。その狂気の代償は生半可なものではない 。
自分の狂気は、自分の最愛のものを奪うことになる。
地獄に落ちるぞ!そのまま眠らせておけよ、しっかりと ───。

自分のなかに潜む狂気の度合いを確かめたいか?
ならば、「セブン」をおすすめする。
けれど、自分がその狂気の魅惑に勝てなそうな人は、この映画は絶対に見ないでください。

さあ、地獄に落ちる前に、絶望を思い知りたいなら、「セブン」にしやがれ!


追伸1
感情で生きているミルズに対し、感情を押し殺して生きているサマセット。この心の闇を抱えたまま静かに生きるサマセットも実にいい。
彼は、日頃から人間の恐ろしさに絶望している。いくら身を粉にしてもそれを人々を救う事はほとんどできない。
そう思いながらも知的探求に富み、恐ろしい事件の推理を組み立てていく渋く格好いいキャラクターと、それを演じるモーガンの品のよさが、この映画の品を更に高めている。
メモりたくなるサマセットの台詞。
「大事なのは何か一つをみつけて、それをくさるまで追求することだ」
「産まないつもりなら妊娠は内緒にしろ。だが子供を産むなら、精一杯甘やかして育ててやれ」
「ヘミングウェイが書いていた。「この世は素晴らしい。戦う価値があると」後の部分は賛成だ」

追伸2
犯人ジョン・ドゥ役のケヴィン・スペイシーは、さながらジョーズのようだ。映画の中でほとんど姿が見えない。けれども犯罪者としてかなりのインパクトがある。ジョーズにしても、エイリアンにしても、ほとんど見えない、だからこそ怖いというのは映画の鉄則なのかもしれない。



2013年10月28日月曜日

「リービング・ラスベガス」真っ当に生きれない男と女の切ない愛


家族も仕事も、全てを酒で駄目にしてしまったアルコール依存症の男が、最後に一つだけ人生でやりとげようと決意したこと ─── それは、酒を呑んで死ぬことだった。
そして死ぬために選んだ地、ラスベガス。そのベガスで一人の娼婦と出逢い、恋に落ちた、、、

これは死を決意した男の話である。

死ぬことが主人公の使命なんて、なんて後ろ向きな話だろう。
一般的に、ストーリーの主人公は困難を克服し成長する。観客は、その主人公がチャレンジする姿に共感し、物語に秘められた大きな使命が果たされた時、カタルシスを得る。
この話の主人公、ベンも、幾多の困難(問題)を克服し(乗り越えて)?見事に酒で死を果たす。だが、流石にその使命が果たされてもカタルシスは得られない。あとに残るのは行き場のない虚しさだ。
アル中になって酒で死ぬことを賛美することはできないし、反社会的なものを目指していない限り、アル中の死は格好よく描いてはいけないはずだ。

しかしこの映画は格好いい。
アル中のベンの死に様にぐっと来る。
その救いようのない生き方しかできず、のたれ死ぬはずのベンに光を当てるのは、娼婦、サラだ。

サラも傷を負っている。
サラは、娼婦として生きている自分の人生に絶望していた。しかし、ベンのように割り切れてはいない。自分が娼婦であることを否定もできず、その仕事を営み、いい家に住み、それなりの生活をして生きている。
日々の心の痛みは、なんとかやり過ごせるし、死ぬほど辛い訳ではない。そんな微妙な毎日がただひたすら過ぎて行く。。。
いつかサラが、映画を見ている自分の投影にも思えてくる。
そんな、ただ漫然と生きてしまっているサラだからこそ、死を全うするために真剣に生きているベンに強く惹かれてしまう。
それが間違った生き方だったとしても、、、

だからサラは、ベンに死が訪れた時も必死にそれを受け止めようとする。ベンの唯一の願い、酒を呑んで死ぬことが果たされたことを認めることこそ、ベンの生き様を認め、彼の人生を肯定することになるからだ。しかしそれは到底できない。愛する者の自虐的な死を祝福できる者はどこにもいないのだ。

僕たちは生きている。
でもそれはただ死んでいないからだ。。。
これは強く正しく生きれない弱い人間同士の切ない愛の物語だ。
毎日を、生や死と、真剣に向き合って必死に生きることはとても厳しく、険しい道のりだ。
誰もが毎日をそんなに強くは生きれない。
生きていることに自信が持てなくなった時、きっとこのベンの正しくない生き様が、サラと同じように静かに強く心に響いてくる。
ベンの人生は間違っている。
しかし本当に自分の人生はベンよりマシか?
自分の人生を本当に全うして生きているのか???

ただ死んでいない日々を送っているとはたと気付いた時、落ち込んで心細くなった時、なんだか心が震えて誰かに静かに黙ったまま付き合ってもらいたい時、ベンの生き様を見たら、少しだけ勇気づけられるかもしれない。

そんな、強く生きることにちょっぴり疲れて切ない気分の時は ───「リービング・ラスベガス」にしやがれ!

追記1
この原作を書いたジョン・オブライエンは、この映画の通りアルコール依存症で、この原作を書いた後自ら命を絶っている。正に自分の命を削り、心血を注いで書き残した命の脚本である。合掌。

追記2
本作品は、主演のニコラス・ケイジが、1995年のアカデミー賞、主演男優賞を受賞している。ニコラス・ケイジといえば、やはり薄い髪の毛と厚い胸毛。匂い立つ男、ナンバーワンである。本作のようなダメ男から、「ザ・ロック」のような大作のヒーローまで幅広くこなせるツワモノの一人。ほかに「月の輝く夜に」「ワイルド・アット・ハート」も素晴らしいです。

2013年10月21日月曜日

「夏の終り」静かにたぎる情念の愛



白と黒、切り絵のような、美しい夜の田園 ───。
その実写が、染め物の模様に切り替わる。
藍色の夜、白く光る棚田を、これまた真白い月が静かに見下ろしているのが判る。
とその画が真ん中でとぎれて揺れる。染色の暖簾が風に揺れたのだと判る。
その暖簾を見つめている知子がいた。
彼女は染色家だ。
と、突然知子はその美しい暖簾に染色の液を叩きつける。
泣きわめきながらせっかく完成させた美しい暖簾をズタズタにしてしまう。
そして暖簾と共に崩れ落ちる。
暗転
「この家息苦しいのよ ───」
暗闇の中から聞こえる悲痛な嘆き。。。

静寂と怒濤が一瞬にて交錯する。
息を飲み込む。。。

原作、瀬戸内寂聴。監督、熊切和嘉。昭和30年代を舞台にした映画、夏の終り。
上記は、主人公の女、知子が、惚れてしまった二人の男たちと、その男達と惰性的な生活を続ける自分自身にうんざりし、どうしようもなくやるせなく、行き場のない想いに破滅的になる瞬間を描いたシーンである。
これらが、説明的なセリフではなく、ひとつひとつの画と行動をつむぎながら、心情を丁寧に織り込んでいく。
この映画は、全編に渡り、そんな映画的な語り方にこだわり、観客を映画という時間で満たそうと汗をかく、一途な映画である。

映画は、この主人公の女一人と、彼女の愛人の男二人の三角関係を描く、愛の物語だ。
情事のシーンはあえて見せない。けれども静かに空気が色気立つように作られている。
主演の満島ひかりがたまらなくいい。
細身だが凛として力強く、艶やかに、二人の男を同時に愛してしまう女を演じている。
満島の年齢は作中の人物設定より10歳ほど若いため、若干その年齢を経た熟れた色気は物足りない。だが、逆に彼女が持つあるあっけらかんとさばさばした一面が、この映画に明るい好感を作り出している。
この設定で、女を情が深く、どろどろさせてしまうと、安いメロドラマのようになるが、そのぽーんと弾けたさばさばさに救われるのだ。

三角関係は、日常に埋れ掛けていた三人の心を熱くさせ、輝かせるが、当然長く続かない。
そんな知子が、長年付き合い続ける妻子持ちの愛人、慎吾との関係の行末を案じ、思い切って慎吾が妻子と暮らす家を訪ねるシーンが特にいい。
道に迷いつつ正妻の家に向かう知子。夏の暑い陽射しが落ち、日本家屋が並ぶ裏路地に立ち尽くす白い着物の知子が美しい。
迷いに迷ってようやく見つけた家の軒先に、慎吾が知子の家と同じたたずまいで猫を撫でている。
慎吾が知子に気付き、無言で固まる。その顔をあえて格子戸の柱で隠し、静かに動揺する愛人の気持ちを表す。慎吾が見知らぬ人のように見えてくる。その居心地の悪さ。愛する男が急に詰まらない男に見えてくる。
これら一連の心の動きを映像だけで静かに語るのも潔く気持ちがいい。
しかし結局、妻子は外出していて、何も起きない。覚悟を決めて出てきたのに、その気持ちのやり場に途方にくれる知子。お茶を出す慎吾の先に、知子が家に置いたのと同じ形のサボテンが申し訳なくあって、愛人が一層憎らしく見える。

この映画は、行動や発言と気持ちが解離している人間の不思議や、日々暮らしている中でちょっとした人生の機微(きび) を次々と垣間見せてくれる。劇的ではないけれど、人生を揺り動かすささやかな瞬間を見事にとらえた、大人の映画だろう。
表面からは隠れた微妙な心の動き、息遣い、汗や匂いが、静かに熱く伝わってくる。これは、くるおしい、微熱の映画なのだ。

人は、人の心を思いやらなければならない ───。

もし、あなたが自分の男女の関係に刺激が欲しいと感じていたら、この映画をオススメする。
日常に埋れていく自分に、変化を求めはじめる知子のさばさばとした覚悟と勇気に、きっと励まされるだろう。

静かに、けれど激しく、ときめきたいあなたは、「夏の終り」にしやがれ!


余談:
家庭を持つ愛人、慎吾役の小林薫は、学生の時に見た森田芳光監督「それから」の時から年を取っていないのではと思わせる若々しさ。もう30年近く前の映画なんですけど。。。この「夏の終り」よかった方は、こちら「それから」もオススメです。
また夏の終りは、衣装、ロケーションもとても素敵です。



2013年10月17日木曜日

「わたしはロランス」美しく燃え盛る男と女



美しい ───!完璧に。
人間の美しさを、みせつける、完璧に美しい映画だ。

人を美しくするもの ───、それが何かを、考えさせられる。
人を美しくするもの、それは人の心だ。
人の心がその人の容姿を美しく作り上げる。
そして、その美しく激しく熱く燃える心と心がぶつかり合う。
そう、これは愛の物語だ。
愛するために、愛する人とすれ違う、哀しく狂おしい愛に圧倒され、打ち震える。

この映画には引き込むような強い眼差しに溢れている。
冒頭のシーンをはじめ、ぶしつけに注がれる眼差しが、黙ってこちらを威圧する。
その眼差しはロランスに注がれている。
35歳、大学?の国語教師であるロランスは、性同一性障害から女として生きることを決めた男だ。
彼は、同棲する彼女のフレッドに、35年間秘めていた秘密を打ち明けた。
今ロランスは晴れて女のいでたちで街へ出たのだ。
判りやすく言えば、女装をしたおじさんだ。
彼(彼女)が、これまでの短髪のまま、化粧と女装だけをして大胆な告白に挑むのも潔くていい。
彼は長年秘めて来た秘密を一遍にさらけ出し、闊歩する。
みなの反応におののきながらも、やがて再び生きかえった花のように誇らしくみずみずしく美しく輝いていく。
その時の緊張から爽快感へと一気に飛躍する気持ちよさったらない!!

だがその爽快感は長くは続かない ───。

女になりたかったロランスを愛する彼女のフレッドは、男性であるロランスを愛している。
男が好きなのに、自分の男が女になろうとしてる、、、その戸惑いと絶望感。
女になりながらも、女のフレッドを愛しているロランス、本当の自分を素直に受け止めてもらえない恐ろしさと孤独感。
二人の愛は行き場をなくし、怒り、嘆く!どうしたらいいのか、解決できず、二人は怒濤のようにぶつかり、そして傷つき、別れる。。。
おお、愛してる!なのに愛したくない!
愛せない!愛されない!もう、どうしたらいいのーッ!
設定、脚本、演技、演出、本当に文句のつけようがないほど見事だ。

更にこの映画の、圧倒的な映画的な美しさも見逃せない。
全編に渡り素晴らしいシーン、ショットであふれているが、特にクライマックス、ロランスと別れ、家庭を持った暮らしをおくるフレッドが、ロランスから送られた彼の詩集を読まずにはおれない。そしてその読んだ詩に打ちのめされた彼女に、頭上から滝のような水が降ってくるショットにクラクラする!そして、フレッドがロランスに手紙(あなたは全ての境地を突き破った。あとは木の扉だけ・・)を送り、フレッドの元に駆けつけるロランス、二人が稲妻のように再開、結ばれる。続いて逃避行先の地、イル・オ・ノワールで歩く二人を祝福するように女性のカラフルな服が舞い降りてくるショットまでの幸福感に、完全にノックアウトとなる。そしてその夢の時間の後に一気に押し寄せて来る現実。。。本当にたまらなく、うなるほど素晴らしい!
映画を見ている間中、まるで自分が出逢った素晴らしい映画に恋に落ちてしまった高校生の時のような、純で熱いムンムンする気分が沸き上がってきた。
人生って素晴らしい!人って美しい ───!

だが本当に一番驚いたのは、こんな大人の愛の傑作を撮った監督が、まだ24歳の若者で、しかも3作目、デビュー作は19歳で男前で色男で主演もしているという逸材であることだ。更に彼自身のオリジナル脚本である。(どうしてこんな大人の男女の会話がつらつら続く映画の本を24歳で書けるのだ!?)
正に天才!この監督さん、グザヴィエ・ドランには映画の神様が神々しいくらいに宿っています。
おお、映画の神様ありがとう!
この天才が若死にせず、まだまだ映画の傑作を生み出していくことを願わずにはいられません。

僕は映画の奇跡を見た。どこまでも美しい映画で、どこまでも人は美しくなるべく精進するべきだと思い出させてくれた。
僕らはいつでも、鏡を見て、自分が美しいかを確かめる必要があるだろう。
そして、心がちゃんと美しいか、確かめるべきだ。
それから、その現状を素直に受け止め、謙虚に心を磨くべきなのだ。
いつでも、自分であるように。
さあ、億劫な足を前に出して、鏡を視に行こう。

自分も、美しくなりたい!
汚れた心を洗い流して清めたい!と思ったなら、とにかく ───、わたしはロランスにしやがれ!

2013年10月16日水曜日

「シェルダリング・スカイ」強すぎる愛の旅



愛が強い。
愛が強過ぎる。
心がふるえる。
なんて素晴らしい映画なんだ。。。
これこそ映画だ!!!

監督のベルナルド・ベルトルッチ曰く。
これは複雑なカップルの単純なストーリーだ。二人は互いに激しく愛しているのに、幸せになれない。

時は1947年 ───。
喧騒の都会を離れ辺境の北アフリカを訪れた主人公夫婦のポートとキット。二人の愛はすれ違い、やがて行き場を無くし、砂漠を彷徨い始める。

生活から遠く離れた美しく荒々しいアフリカの地。
旅を続ければ続けるほどに二人は悲劇の運命に突き進んで行く。

この映画の素晴らしさは、主人公たちの複雑な感情が説明のセリフやナレーションなしに、眈々としたストーリーと演出による映像によって、ジンジンと伝わってくるところだ。
わたしたちは、ここに居ながら、遥か遠いアフリカの焼け付く砂漠の砂塵を感じることができる。
アフリカに着いたその晩、売春を行うジプシーの見張りの男たちに捕まるポート。
ポートが病気になった街で、迷路のような街中を走りホテルを探すキット。
病に落ち熱にうかされてアフリカのトランスに落ちる踊りを夢見るポート。
どんどん裸になっていく二人。
熱にうかされたような二人。
全てを捨て去っていく二人。

これは哀しい旅だ。
なのに、僕はこの旅がいつまでも続くことを望んでいた。
旅を続け、悲劇に陥るほど、愛が強まるのだ。
二人の焼け焦げてなくなりそうになりながら、激しく鼓動し続ける感情が、画面からほとばしる。

だが、強い愛の行き着く先は、死という恐ろしい別れであった。
死の間際、ポートはキットに告げる。
「ぼくはきみのために生きている。やっと気付いた」
そんなこと言いいながら死ぬなよ!
キットはポートの死に、自らの存在価値を見失う。
旅の途中、一人きりになってしまうキット。恐ろしさに呆然となる。

偶然、ラクダで物資を運搬する男たちに出会い、一団に加わり、再び砂漠の旅をはじめる。
これがトラベラーの本当の始まりだった。

魂が抜けたキットを受け止めてくれる砂漠の、圧倒的な美しさといったらない。
同じ砂漠の景色が、二人のドラマによってどんどんと変わって行くのを目にして、本当に感激してしまう。

原作のポール・ボウルズ曰く。
空は明るいと思われているが実は黒い
空の向こう側に行けばわかる
空を信じてはいけない
人類を闇から守ってるというだけだ
空の向こう側は闇だ

ぼくらはどこからきて、どこにいくのだろう。
ぼくらは満月をあと何回見れるだろう。
1000回?
500回?
確実に判っていることはその数は無限ではないことだ。
わたしたちは、生きる術を求め、ポートとキットのように、このまま帰らない旅へ旅立ってしまうべきなのか。
自由に生きることほど難しいものはない。

キットのように、失ってしまうなら愛などいらないのだろうか?
答えはNoだ。
いかなる時も人は愛し続けなければならない。
強く、どこまでも強く。

人生に迷ったのか?
Yes
ならば「シェルダリング・スカイ」にしやがれ!



2013年10月15日火曜日

「パリ、テキサス」不器用な愛の映画



愛しているのに一緒にいることができない、、、
これは不器用で哀しい家族の映画だ。

家族を愛する男がいる。
彼は愛がとても強い。でもその強い愛のせいで逆に家族を不幸にしてしまった。
心を痛めた男は、やがて愛する家族から一人去っていく。
 

パリ、テキサス
ヴィム・ベンダース、ロードムービーの傑作である。

この映画をはじめて見たのは19歳の時。三鷹の名画座だ。

記憶を無くし行方不明になっていた一人の男、トラビスと、まもなく10歳になる息子が、6年ぶりに再会した。
離れ離れになっていた3人の家族。
トラビスは、息子と共に別れた妻を探す旅に出る。

台詞は僅か。静かに進行するストーリーに、時折ライ・クーダーのスライディングギターの音が、登場人物たちの震える心の叫びのように聞こえてくる。

ラスト、一度は離ればなれになった家族は、再会しその絆を確かめ合う。でも彼は再び妻と子の前から去ってしまう。
トラビスが妻と子から去って行くことも、はじめて見た時は気付かなかったかもしれない。
まだ子供だった僕は、正直この主人公トラビスがとった行動がよく判らなかった。


やがて家族を持ち、自分の命が、自分だけのものではないこと。自分よりも大切な人がいるということを知った。
いつかトラビスが家族の元を去った訳が判るようになっていた。

飾り気がない、恐ろしく淡々とした地味な映画。
でもこの映画は、僕の最も愛する映画の一つになる。
そして今、このトラビスの静かな苦しみを一層痛くリアルに感じることができる。

トラビスは自分の理性をコントロールできない男だ。
時に激興して家族を傷つけてしまう。
それでも家族は、トラビスと一緒にいることを望んでいた。
トラビスも、深く家族を愛していた。
再び家族と暮らし始めることで、また昔のように家族を傷つけてしまうかもしれない。。。
だからこそ、家族を傷つける自分を許せなかった。
そして再び家族の元から姿を消す。
それが不器用なトラビスが唯一できる精一杯の愛情表現だったのだ。

あまりに勝手だ!
自分勝手過ぎる。
家族を捨てる。よくいえば家を出て行く。
愛する者の前から、去らなければならない。
それが家族の幸せを得るための一番の選択だなんて、、、
愛し過ぎるために、愛する家族と一緒に過ごすことができないとは、なんて哀しい話なんだ。
家族もまたトラビスのことを愛している。
だから妻はトラビスが家族の元から去ることを知っている。
あえて止めない。いや、止めることができないのか。
家族が別れ離れになる、それが家族にとっての一番のハッピーエンドだなんて、あまりに切ない。
この映画のトラビスの旅は、家族を壊したことへの彼なりの償いであり、最後の別れは、妻と子を愛するが故の、身勝手だが勇気ある決断なのだ。
それはトラビスにとってハッピーエンドでないだろう。
愛が強すぎるトラビスの生活にハッピーエンドは訪れない。
この先、自分の知らない地球のどこかで、妻と子が強く逞しく生きていければ、それでいいのだ。
自分自身の気持ちや幸せよりも、家族の幸せを何よりも優先しようとするトラビスの勝手で一途な愛、男の意地にぐっと来る。
己の幸せは、自分の内側ではなくて、自分の外側にある。
泣ける。
たまらないほどに、、、

人生は杓子定規にはいかない。
これは不器用で美しい愛の映画だ。
トラビスの我がままな愛の強さを否定できない。

じっと黙って見て、静かに泣きたいなら ───
パリ、テキサス」にしやがれ