2014年2月23日日曜日
「イントゥ・ザ・ワイルド」若者の果てなき希望と絶望
この映画は、とても残酷で辛い結末なのに、見終わって、何故こんなにも清々しくいれるのだろう?
この映画には、若者が世界の中へ強く羽ばたき生きていくことの希望と絶望が詰まっている。
あなたがまだ社会に出る前の若者なら、今すぐこの映画を見て欲しい。
そして、もし自分が同じ立場やシチュエーションに置かれたら、どんな行動をとるか、想いをめぐらせて欲しい。
この話の主人公、クリスが、大学を卒業して家を出るとういう行動はごく普通の決断だった。
人の人生で、若者ほどセンスティブで傷つきやすい時期はないだろう。
若者にとって、世界の中心は自分であり、自分の命は自分のものであり、自分の人生を決める自由と恐怖が渦巻いている。
だから若者は今すぐ親元を離れ、育った家を出て行かねばならない。
人生には、たった一人、自分の居場所を探すべく、大きく限りない未知の世界へと飛び込んでいく飛躍の時が必要なのだ。
そしてはじめて自分自身の力で生きることがどんなことかを知る。
世界はあまりに冷淡であり、同時に寛容で美しい。
その幸福に気づかない若者は、今すぐに、それを身を持って知らねばならない。と僕は思う。
自分の自由と恐怖を昇華するのだ。
やがて、一人で生きるなかで、親の支援の大きさを知り、
愛する人ができて、愛することを知り、
子供が生まれて、人がつながって社会や世界や歴史になっていることを知り、
自分の人生が自分だけのものでなく、家族や世界のものでもあると知るだろう。
しかし、親元を離れたクリスは、普通の若者が目指す都会ではなく、それとは真逆の誰もいないアラスカ、荒野へ向かった。
クリスは何故、わざわざ生きることが困難な荒野へ向かわねばならなかったのか?
一見、クリスの行動は、人間や社会からの逃避に思える。理解しがたい行為だ。
だがクリスは、生きることを知るために、あえて人間のいない荒野へ向かったのではないか?
同時に、クリスの行動は、この世界には安全で幸せに暮らせる場所があるのに、人はその気になれば、死と背中合わせの過酷な場所へ行けるという恐ろしいまでの自由を突きつけてくる。
誰もしたがらないことに、クリスは挑んだ。
そして映画は、自由を選んだクリスに、自由であることの希望と絶望を見せつける。
特に衝撃的なのは、辿り着いたアラスカの地、クリスが空腹で倒れそうになりながら、食べ物を探し、巨大なヘラジカを仕留めるシーンだ。
なんとかしとめたヘラジカから肉を切り出し、それを燻して保存できるようにしようとしていると、虫がわいてしまう。
結局クリスは一口も口にすることがないままヘラジカの肉の全て、つまり命を無駄にしてしまう。
クリスは自分の無力さをまざまざと思い知らされる。
今わたしたちはスーパーに行けば肉を簡単に買える。買うものはすぐに食べられる肉であり、牛や豚ではない。
だから今のわたしたちに自分自身で動物を殺してその肉を食べることができる人はほとんどいないだろう。
そうして普段肉を買って食べることはごく気にならないほどの当たり前のことなのに、荒野では、一人では命を食べ物に変えることができない。
クリスがせっかく奪った命を無駄にして、全てが徒労に終わったと知る瞬間はあまりに辛い。
自分は自由でなんでもできるはずなのに、結局何もできない不自由さに絶望し、打ちのめされる。
自由は、あまりに過酷で厳しいのだ。
そうして空腹でやせ細ったクリスは死ぬ。
だがクリスの死はその事実よりは悲劇的ではない。
なぜならば、クリスはただ夢見るだけでなく、実際に荒野へ向かい、そこで生きることに立ち向かったからだ。
それは称賛されるべき行為だ。
クリスは、人が厳しい人生をあえて選択できるという人の自由を、身を持って証明した。
だから、衰弱して死ぬ彼を見なくてはならぬラストシーンで、その結末の惨さに反比例して彼への称賛の気持ちがが押し寄せてくる。
死んだ魂のごとくパンアップし空に舞い上がるラストショット。虚しいはずなのに、清々しく感じてしまう。
クリスはその偉大な経験を、彼の人生に生かすことはできなかった。
荒野へ向かい死んだクリスは馬鹿者だったのか?
多分その通りだろう。
でも決して誰も彼を馬鹿にできない。
彼は行動した。
誰よりも強く、無謀に。。。
人は荒野へ向かうべきだ。
たとえ若者ではなくても。
いつでも。
どこでも。
そして何度でも死んで生き返り、また荒野へと向かうのだ。
きっと誰もクリスの行為を真似できない。
でもその"無謀な心意気"は、真似るべきなのだ。
もしあなたが若者なら、
親元を離れ、美しくも厳しい広大な世界に向かって飛び込みたいなら、
自分の居場所に絶望していたら、
今とは違う偉大な未来を夢見ていたら、、、
「イントゥ・ザ・ワイルド」にしやがれ!
2007年。ショーン・ペン監督。
2014年2月2日日曜日
「ツリー・オブ・ライフ」果てしなき俯瞰から眺める"命"の世界
思い切り期待を裏切りられた!
ブラッド・ピットとショーン・ペーンの濃厚な父子話を期待してたのに、そんなドラマは微塵もない。
僕は、そのあまりの裏切り様に、笑ってしまった。(もちろん、笑える映画でもない)
けれど、僕はこの映画が、面白かった。恐ろしく、最高に、お気に入りの映画だったのだ!
そこには自分の期待を遥かに超える、濃厚な時間があった。
それはとてつもなく驚異的な世界観だ。その予想外の体験に、僕の心は反響した。
こんな映画の表現が、まだ世の中にあったんだ ───!!
映画を見る間、映画そのものより、その"未知との遭遇"を味わっていることに感動して、映画館の椅子の中に沈んで行ってしまいそうだった。
しかし、何故、この映画は、面白いんだ????
それを解き明かすことは、この映画を面白いと思う人の使命に違いない。
なぜなら、この映画はきっと、大概の人に受け入れ難い映画であるからだ。
この映画を、普通に真面目に見たら、きっと意味不明で訳がわからないものだと思う。
それは、この映画に、普通の映画にあるセオリーがないためだ。
つまり、「主人公が避けられない困難に遭遇し、それに立ち向かい、乗り越え、何かを成し遂げ、または失敗挫折し、カタルシスを得る」─── という流れだ。
もし見る人が、そんな映画らしさ(映画の達成感)を期待してたら、この映画は見るに堪え難い代物であり、無惨な体験をするだろう。
僕は、この達成感を抱く映画を否定してる訳ではない。
スターウォーズ、ロッキー、ET、スタンド・バイ・ミー、用心棒、素晴らしき哉、人生!などなど古今東西の名作映画の数々、、、
それら主人公の行動を緻密に積み上げて感動させる映画の美しさ、楽しさに魅せられている。
例えそれが悲劇的な結末になろうとも、主人公が困難に立ち向かうストーリーこそ映画の王道だと思う。
しかしながら、僕は天の邪鬼でもある。つまり、その王道をあえて踏み外す、パイオニアも大好きだ。
この映画は、そんな映画の道を逸脱している。
普通にあるべき物語さえ否定しているように思える。
観客が目にするのは、父と子。兄弟。家族。軸になる人間関係を断片的に切り取ったシーンである。
しかし、それら断片的なシーンとシーンが積み重なって、相乗効果を上げる作りにもなっていない。
一見すると、とりとめない映像が連なる映像詩のようだ。しかし、ただの映像美、格好をつけた実験映像という訳ではないはずだ。
何故ならば、僕はこの映画に感情移入をしたからだ。
何故、こんなとりとめない端切れのような映画に、感情移入してしまうのだ?
きっとそこにこの映画を面白いと思う秘密が隠されているのではないか。
この映画は、一見、ぶつ切りの記憶が、不規則にとりとめなく流れ出ているだけのようだが、俯瞰で眺めると、そこに突如大きな一つの形が浮かび上がってくる。
シーンシーンが積み重なり、物語ではなく、一つの集合体になっているのだ。
ドラマでなく、ある人生の一部を切り集めた集合体。。。
いや、、、人生というより、もっと遥かに大きい、巨大な生命体、ガイア、命。。。
そう、そうだ、この映画は命の集合体、「命」そのものを描いているのだ!!!
しかも、恐ろしいくらいの俯瞰から見た「命の世界」だ。
過去から現在、ミクロの細胞から、マクロの宇宙の果てまで、時空と空間を超えて、映像が行き交い、突き抜ける ───
そして、マクロなのかミクロなのかも判らなくなる。
更にこの映画が本当に凄いのは、宇宙の果てからミクロの原子までを描きながら、同時にごく普通の日常を描いていることだ。
思春期の主人公がふと出来心で隣の家に忍び込んで、お姉さんの下着を盗んでしまうシーンと、ある太古の時代、黄昏の空の下で餌を求める恐竜のシーンが共存する摩訶不思議さ。
しかもそれらは、違う次元でなく、同じ次元で、同じ価値を持っている。そこが凄い。
これまで時間の流れや存在する場所を超越した映画はあったと思うが、この映画は時間や場所だけでなく、すべての次元を超えている。
これほどスケールのでかい映画があるのだろうか。想像するしかない大きさの世界を見事、可視化しているのだ。
ガイア、命そのものを見ていたら、そこに確固たるドラマがなくても、心が動かされてしまう瞬間があっても納得できる。
どんな出来事でも、命があるからこそ、起きているのだから。
ドラマとは何か?
あらためて思う。
僕は、映画とは人間を描くものだと思っていたが、この映画は人間というよりも命を描いている。
そういう映画もありかもしれない。
瑣末でちっぽけな僕には、なんだかあまりにも大き過ぎて偉大過ぎてよく判らない命。でも素晴らしいと感じられる命。
多分ありきたりに言えば、理解するのではなく、ただ見て、感じればよいのだと思う。
ドラマを見て感動するというよりも、映像が紡ぐ命の響きに反応、共鳴するのだ。
あなたの心を、あまりに偉大な命の深淵に共鳴させてみたいなら、、、「ツリー・オブ・ライフ」にしやがれ!
追記1
ツリー・オブ・ライフ、命の木。。。木は、フラクタルの象徴のようなものだが、人間の身体の中にも、同じ世界(血管やシナプスなど)が広がっている。それと同じように、この世界は、ミクロからマクロまで、どこまでも樹の幹のように果てしなくつながっているのだ。この感想を書いてみた後、映画のタイトルの意味がすんなり入ってきた。
追記2
僕はこの映画の監督、テレンス・マリックの映画はこの映画が初見だった。なんだか食わず嫌いであったことを悔やみ、この映画を見てから、このマリック氏の映画をあらためて見てみる。「天国の日々」「シン・レッド・ライン」 ───。今度は、「ツリー・オブ・ライフ」のノリ(テレンス・マジック)を期待し過ぎたせいか「ツリー・オブ・ライフ」ほどのインパクトは味わえなかった。しかし、なるほど。美しい映画です。マリック氏が映画人達に多大な影響を与えていることに今更ながら納得。(ちなみに本作は、2012年のカンヌ国際映画祭、パルムドールを受賞している。)そこで更に最新作「トゥ・ザ・ワンダー」も喜んで行ってみる〜〜〜が、残念ながら僕はこの映画は乗れなかった。まさに単なる映像美という感じしか味わえなかった。(「トゥ・ザ・ワンダー」のやりたいことは、核心はないが、きっと「愛」でしょう。けれど、愛は命よりも前にあるから〜、という訳で、このマリック戦法で「愛」を描くのは、この天才監督をもってしても、至難の業であると思う。だって愛は女性のごとく遥かに強く美しく同時に醜く下世話でしたたかで手強いのだ)しかし、この寡作な天才監督、テレンス・マリックの次作に期待しすぎず注目したい。
追記3
この映画のチラシには「父さん、あの頃の僕は、あなたが嫌いだった。。。」とある。これはどう見てもブラッド・ピットとショーン・ペーンの濃厚な父子話に思ってしまうだろう。(もちろん、そんな映画があるなら見たい!)これは確かに集客できそうなキャッチフレーズだが、(僕もそれに騙された)そう思って映画を見た人の大半は、寝るか、腹を立てるかどちらかだったのではないでしょうか?しかし、かといって、これは"命"と共鳴する映画なんですー。という宣伝文句ではお客さんはさっぱり反応してくれなそうだ。例えば、「あなたは、巨大な"命"を目撃する!」。。。なんて、なんだか新しいエイリアンものみたいだ。
2014年1月10日金曜日
「ふたりのベロニカ」 生を刻む瞬間。やがて失われる人生の美しさと哀しさ
とても大切なのに、その記憶は消え去ろうとする ───。
この映画を最初に見た時の記憶は、とても曖昧だ。
印象的で、一瞬で一目惚れした映画のはずなのに、見終わった瞬間、消えてなくなってしまったような感じだ。
とても大切なのに、愛しいのに、、、離れてしまった途端、その想いとは裏腹に、全てを忘れてしまう。。。
「ふたりのベロニカ」
とても不思議な映画だ。
それから何度もこの映画を見た。けれど何度見ても、この映画は夢のように消えてなくなってしまう。
目にしているのに、見えていなくて、逆に、目に見えないものを、見いているような、なんとも形容し難い余韻だ。そして余韻だけがエコーのように増強していき、ふと描き消える。。。
でも消え去ってしまうのが、嫌じゃない。
人生は、やがて消えてしまう。だから美しいのだ。
ただ、ただただ美しい。
本当に美しすぎる映画だ。
映画には二人のベロニカが登場する。
一人のベロニカは、ポーランドに住む。髪が長い。
音楽学校でピアノを専攻している。
その歌唱力を見込まれ抜擢された晴れ舞台、歌っている最中、観客の目の前で心臓の病に倒れ、そのまま帰らぬ人となる。
もう一人のベロニカは、フランスに住む。髪が短い。
やはり音楽をやっていて、音楽の教師だ。そして同じように心臓を煩っている。
二人はうりうたつだ。音楽の才能がある。心臓が弱い。はつらつして知的で、そして美しく愛らしい。
ただ二人は遠く離れて暮らしている。お互いの存在を知らない。
しかし一人のベロニカがもう一人のベロニカを目撃し、やがてもう一人のベロニカももう一人のベロニカが死んだことに気付く。
すると二人の死と生が交わる。
二人のベロニカを演じるイレーヌ・ジャコブに圧倒される。彼女はまさにミューズ、ミネルバだ。
この映画を見ている時間は、自分がもう一人のベロニカ(第三のベロニカ)になった錯覚にとらわれる。
それは幽体離脱した自分が、寝ている自分を見下ろすようなイメージとでもいおうか。
そして、ベロニカの傍らで、ベロニカの生きているその瞬間、瞬間を目にするのだ。
髪の長いベロニカが、舞台で歌っている最中、突如倒れて死ぬ瞬間 ───。
髪の短いベロニカが、舞台裏の人形師と鏡を通して目が会う瞬間 ───。
駅の構内にある喫茶店でベロニカを待ち続ける人形師を見つけた瞬間 ───。
旅の写真の中にもう一人の自分を見つけ、そのもう一人はもう既に死んでいると悟る瞬間 ───。
それは、やがて失われる人生の美しさと哀しさ。
生を刻む瞬間である。
この映画は、あまりに美しい生の瞬間に満ちている。
その瞬間、瞬間に、あらゆる不思議が込められている。
人と人が出逢うことの不思議。
人生を生きていることの不思議。
人が死ぬことの不思議。
人間という存在の不思議。
自分が生きてる前も、死んでからも、世界が動き続ける不思議。
不思議で、美しく哀しい、今、この瞬間。
この映画は何も語らずに、全てを語っている。
生きている瞬間、瞬間、瞬間を生きる ───。
人が生きる瞬間を積み重ねるように、この映画は、人生を刻んでいる。
これは生を刻む体験だ。
本当に素晴らしい人生の瞬間、映画の瞬間を心に刻みたければ、、、「ふたりのベロニカ」にしやがれ!
追記
本作は1991年の公開。ポーランド出身のクシシュトフ・キェシロフスキ監督は、1996年、惜しくも心臓発作で帰らぬ人となった。キェシロフスキ監督の映画は、素晴らしい映画を数多く残してくれている。旧約聖書の十戒をモチーフにした「デカローグ」、ジュリエット・ビノシュ主演の「トリコロール/青の愛」の悲劇も美しいが、同じイレーヌ・ジャコブを迎えた「トリコロール/赤の愛」の情熱もまた狂おしく素晴らしい。且つこれらサウンドトラックも感激の一品だ。また残された脚本も映画化されており、その一本「ヘブン」もまた美しい映画である。
2013年12月10日火曜日
「サクリファイス」世界を救うための敬虔な祈り
明日、世界が終わるとしたら、私たちはどうするだろう?
もしその世界の終わりを自分を犠牲にすることで防ぐことができるなら、自分は立派にその使命をやり遂げることができるだろうか?
サクリファイスは、突如戦争が勃発した日のあるありふれた田舎の一家を描く。
映画のタイトルは犠牲。
監督のアンドレイ・タルコフスキーが描く犠牲は、アルマゲドンのような英雄的なものではない。
戦争について詳細は一切語られない。描かれるのは世界の終わりに対峙して、戸惑い嘆きうろたえるごく一般の人たちである。
主人公の一家も世界の終わりが来たとおののき、打ち拉がれる。しかし主人公は自分の子供、そして世界の人を救うために魔女だと噂される女に知恵を求め、やがて救済の生贄として自分の家に火を放つ。
彼は狂ったのか、それとも世界を救おうとする聖人なのか。
この映画には普通の映画にはない、何かが宿っている。
タルコフスキーの映画、、、それは神を宿した「聖なる映画」だと僕は思う。
人は、人々の罪を背負いを救うために死んだイエス・キリストのように生きれるのか?
タルコフスキーはそんな大いなる問いを問い続けた人間だった。
しかし当然普通の人間はイエスのように生きれない。
でも、それでも人間にはイエスのように生きれる魂を、どこかに秘めているのではなかろうか。
それがタルコフスキーの願いであり、描きたいことであったように思えてならない。
サクリファイスの主人公が神に対してとつとつと救いを求め語り祈る長回しのシーン─── 。
主人公が、まるで見ている私たちに救いを求めているような錯覚を覚える。
あまりに切実な願いに、何もできない我々は逆に戸惑い、あまりの緊張感に耐えられなく、逃げ出したくさえなる。
その大真面目な祈りに身の毛がよだつ。
タルコフスキーの映画は全てが神への畏敬の念と、深い、恐ろしくどこまでも深い愛に満ちている。
映画を見終わった直後、自分の日常の些末な欲望がチリチリと焼けて消滅してしまう。
普段の自分はなんて細かくてつまらないことにぐじぐじしているのだろう。
自分や家族、周囲の仲間はもちろん、世界に役立つために自分に何ができるか?
を真剣に考え、実行するべきなのだ。
聖書が単なる書物ではないように、タルコフスキーの映画は単なる映画ではない。
タルコフスキーは、映画を、人々の感情を揺り動かすドラマの枠を超えて、心よりどころとなるような聖なるものへと高めようとしていたのではないか。
サクリファイスを見た後は、見る前とは違う人生を歩まなければならない。
でもそれは簡単ではないだろう。
私たちは、例えイエスの決断が素晴らしいと感じていても、イエスのようには生きれない。
私たちを突き動かすこのイエスの決断とはかけ離れた日々の欲望を否定はできない。
その欲望こそ人間が生きる源だからだ。
タルコフスキーだって完全聖人ではないだろう。
だからこそタルコフスキーは深い愛を込めて映画を撮り続けた。
タルコフスキーはまさに命を削って映画に命を吹き込み、神に召され若くして死んだ。
タルコフスキーの映画は娯楽とか芸術とかを越えている。
生や人生を問う手段。
まさしく敬虔な祈り。
タルコフスキーの命、祈りそのものなのだ。
だからタルコフスキーの映画は、映画自体が生きて、静かに鼓動を打っている。
フィルムを切れば血がしたたり落ちてくるだろう。
まさに魂が宿った映画だ。
もしあなたが日々の業に埋もれてしまっていたら、一人落ち着いた時間を作って、じっくりとタルコフスキーの映画を見てみて欲しい。
時には大真面目になって、日頃の業を洗い流し、人間が生きることについて静かに想いをはせたい。
そんな時はまず、自分が世界を救うために何ができるかを問いかけてくる、「サクリファイス」にしやがれ!
2013年12月5日木曜日
「ヴァン・ゴッホ」 静かにうねり燃え尽きる情念
フィンセント・ヴァン・ゴッホ ───。
生前と死後で、これほど評価の落差が激しい人間はそういないのではないだろうか。
今や世界中で誰もが知る画家は、生涯で描いた3000枚の絵のうち、生前売れた絵はたった1枚とも言われている。
芸術家にとって、生み出した作品が誰にも評価されないという現実ほど、創作活動を続けていくのに過酷で恐ろしい状況はないであろう。
そんなフィンセント(敬意を示すため姓でなく名前で呼んでみる)の人生が、言い知れぬ深い絶望や孤独に苛まれたものであったと想像に難くない。
実際にフィンセントは、自分の絵に対する信念が周囲に受け入れられず、錯乱し、自ら精神病院に入院した時期もあった。
だがそれでもフィンセントは、約10年間、自ら命を絶つ間際まで絵を描き続けた。
彼は、評価されずとも、自分の絵に、誇りと信念を持ち続けていたのだろう。
そうでなければ、3000枚の絵を描き続けることなどできないに違いない。
画家は絵を描くことこそ、生きることそのものだ。だから生きるためには、評価されなくても絵を、描き続けなければならない。もう、どうしても絵が描けなくなてしまう瞬間が訪れてしまうまで。。。
この波乱に満ちたフィンセントの人生は、きっとどこを切り取っても映画になるだろう。
フィンセントの生活、金銭面を援助し続けた画商の弟、テオとの関係。
画家の信念を戦わせ友情を築き上げようとしたゴーギャンとの蜜月と破局。
労働者をモチーフにした重々しいオランダ時代を脱し、印象派の技術を磨いたパリ時代、そしてフランス南部のアルルでの色彩の開花。更に、色彩が溢れ、うねるような情念のタッチを作り出した死までの道のり。
この映画は、そんなフィンセントが、アルル〜サン・レミを去り、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズを訪れた、死に至る最後の2ヶ月間を切り取った作品である。
この映画で描かれるフィンセントは、炎の人ゴッホというイメージからかけ離れるほど静かで、人間味やユーモアがある。
僕が思い描いていたフィンセントのイメージは、震え立つ情念を押し殺した無骨で無口で堅物の男のイメージだった。
(未見だが、カーク・ダグラスが演じた映画のゴッホはそんな雰囲気に近いかもしれない)
なにしろ、フィンセントが残した絵の荒々しいタッチとあふれる色彩が醸し出すパワーや情熱が、10年間ほとんど評価されずとも絵を描き続けたという事実と重なることで、その絵にかける情熱の熱さと大きさが、より尋常ではないと想像できるからだ。きっと本人は、その情熱の炎が後光のようにその背面で絵筆のタッチのようにメラメラ燃えているような人だろうと勝手に想像が膨らんでいた。
だが、この映画のフィンセントは、少々変わっているところもあるけれど、一見どこにでもいそうな物静かなごく普通の人に見える。
しかしその肩すかしを食らったような静けさが、実は崖っぷちすれすれに追いつめられていた境遇から発せられるものだと判ってくると、逆に何気ない日常の中だからこそかえって、無言の緊張感が見る者に避けがたい重みを与えてくる。
フィンセントが秘める重圧、恐怖、絶望、孤独。
やがてフィンセントの心は、このオーヴェルの地に来た時点で、もはや死と生とのギリギリを彷徨っていることに気付き、身体が強ばる。
映画で、フィンセントが無言の叫びを発している。
フィンセントの心の奥に秘められた叫びを、この映画は静かに語りかける。その叫びだけを察するだけの映画だと、きっと映画を正視することに居たたまれなくなるだろう。だから、映画は絵を描いている時間と同様に、周囲の人たちとのユーモアある交流を見せる。
ほっとさせるのが、フィンセントを支援してくれる医師のポール・ガシェの家族や弟テオ夫妻とのランチシーンだ。
ガッシュやフィンセントが組んで皆を笑わせる瞬間が、過酷な境遇の中にも人間には必ずユーモアがあることをさりげなく見せてくれる。
また圧巻なのは、パリに行き、弟テオと生活費の負担のことで仲違いした夜、カフェ(パブ?)で、みなと酒を飲み乱痴気騒ぎをして過ごす一晩の描写だ。
(フィンセントは、アルル時代、有名な「夜のカフェ」を描いたとき、「カフェは人を破滅させることも発狂させたり犯罪者にさせたりすることもできる場所であることを表現したかった」と語っている)
弟のテオ、そして娼婦や、肉体関係を持ったガシェ医師の娘マルグリット(この関係は映画の創作らしい)たちと一組づつ腕を組んでステップを踏み、やがて全員がつながり一列に並ぶダンスが、圧倒的に素晴らしい。この時代に生きている人達の、些細なこと、重大なこと、その全てをひとまず棚に上げて、ただただ無心に踊る、その生の瞬間に圧倒され飲み込まれる。
更にその後、フィンセントに訪れる朝、まだ生きている恐怖。マルグリットとオーヴェルに戻る列車の中で、生きることも死ぬことも絶望でしかないその身に、孤独と重圧が一気に押し寄せて来る。
とにかく映画はフィンセントの境遇を細かく説明しない。
だからフィンセントの無念の叫びが聞こえなければ、乱痴気騒ぎをしたフィンセントが、何故拳銃で自分の腹を撃ったのか判らないだろう。
人生は辛いことだらけかもしれない、それでも生きた、最後もう情念の絵筆を走らせられなくなるぎりぎりまで。
フィンセントの悲痛だけれども、人を揺り動かす多くの傑作を描き続けた人生に敬意を示し、その秘めた情念の生き様を静かに見せてくれたこの映画と、それを日本で上映してくれた(追記1)人たちに心から感謝したい。
もし人生に絶望にする時があれば、この映画のフィンセントを見て、死ぬまでは己の信念を持ち続け、やり続ける勇気を学べるかもしれない。
震え立つ情念を静かに持ち続ける人間の生き様に圧倒されたければ、この「ヴァン・ゴッホ」にしやがれ!
追記1
本作品、監督はフランス人のモーリス・ピアラ。制作と公開は1991年。それからおよそ20年の月日を経て、イメージフォーラムで監督の没後10周年を記念し本邦初公開された。
追記2
少々わがままをいえば、このフィンセントが最後にたどり着いた絵画の境地=つまり、うねる荒々しい絵筆のタッチをふんだんに使って絵を描く行程が見たかった。唯一キャンバスをアップで追うショットは、筆ではなくてペンティングナイフが使われていたが、フィンセントは実際ペンティングナイフも使っていたのだろうか?
ちなみに現代絵画では、モチーフは正確にデッサンされていなくても(つまりフォルムが狂っていても)絵画として認識してもらえるが、フィンセントの印象派〜ポスト印象派の1800年代後半の時代はまだデッサンの正確さが絵画のよさを決める重要な指標であったのだろう。だからフィンセントのデッサンが崩れた(象徴的なデッサンの)絵は、当時は前衛過ぎて、多くの人に理解されず、ただ下手くそに見られがちだったと想像できる。この映画の中でも、頭の弱い青年に気が進まずに肖像画を描いてあげたら、僕はこんな耳をしてないと文句を言われてしまう。そんな弱者にさえ否定されてきた哀しみがフィンセントの絵にはある。
追記3
最後のフィンセントの自殺のシーンが、とにかく物悲しい。映画中盤で一人部屋で拳銃を頭に当てるシーンもあるが、この最後の時は、屋外で自分の腹に打ち込んだ。だからフィンセントは数日生きている。狭い下宿部屋のベッドに寝かされて、皆が起きると死んでいる。その無惨で美しくない死に様がフィンセントの苦悩を深く表している。
また映画はこのフィンセントの死で終わるが、このヴィンセントが死んで1年後に弟のテオも亡くなっていることは全く感慨深い。
2013年10月16日水曜日
「シェルダリング・スカイ」強すぎる愛の旅
愛が強い。
愛が強過ぎる。
心がふるえる。
なんて素晴らしい映画なんだ。。。
これこそ映画だ!!!
監督のベルナルド・ベルトルッチ曰く。
これは複雑なカップルの単純なストーリーだ。二人は互いに激しく愛しているのに、幸せになれない。
時は1947年 ───。
喧騒の都会を離れ辺境の北アフリカを訪れた主人公夫婦のポートとキット。二人の愛はすれ違い、やがて行き場を無くし、砂漠を彷徨い始める。
生活から遠く離れた美しく荒々しいアフリカの地。
旅を続ければ続けるほどに二人は悲劇の運命に突き進んで行く。
この映画の素晴らしさは、主人公たちの複雑な感情が説明のセリフやナレーションなしに、眈々としたストーリーと演出による映像によって、ジンジンと伝わってくるところだ。
わたしたちは、ここに居ながら、遥か遠いアフリカの焼け付く砂漠の砂塵を感じることができる。
アフリカに着いたその晩、売春を行うジプシーの見張りの男たちに捕まるポート。
ポートが病気になった街で、迷路のような街中を走りホテルを探すキット。
病に落ち熱にうかされてアフリカのトランスに落ちる踊りを夢見るポート。
どんどん裸になっていく二人。
熱にうかされたような二人。
全てを捨て去っていく二人。
これは哀しい旅だ。
なのに、僕はこの旅がいつまでも続くことを望んでいた。
旅を続け、悲劇に陥るほど、愛が強まるのだ。
二人の焼け焦げてなくなりそうになりながら、激しく鼓動し続ける感情が、画面からほとばしる。
だが、強い愛の行き着く先は、死という恐ろしい別れであった。
死の間際、ポートはキットに告げる。
「ぼくはきみのために生きている。やっと気付いた」
そんなこと言いいながら死ぬなよ!
キットはポートの死に、自らの存在価値を見失う。
旅の途中、一人きりになってしまうキット。恐ろしさに呆然となる。
偶然、ラクダで物資を運搬する男たちに出会い、一団に加わり、再び砂漠の旅をはじめる。
これがトラベラーの本当の始まりだった。
魂が抜けたキットを受け止めてくれる砂漠の、圧倒的な美しさといったらない。
同じ砂漠の景色が、二人のドラマによってどんどんと変わって行くのを目にして、本当に感激してしまう。
原作のポール・ボウルズ曰く。
空は明るいと思われているが実は黒い
空の向こう側に行けばわかる
空を信じてはいけない
人類を闇から守ってるというだけだ
空の向こう側は闇だ
ぼくらはどこからきて、どこにいくのだろう。
ぼくらは満月をあと何回見れるだろう。
1000回?
500回?
確実に判っていることはその数は無限ではないことだ。
わたしたちは、生きる術を求め、ポートとキットのように、このまま帰らない旅へ旅立ってしまうべきなのか。
自由に生きることほど難しいものはない。
キットのように、失ってしまうなら愛などいらないのだろうか?
答えはNoだ。
いかなる時も人は愛し続けなければならない。
強く、どこまでも強く。
人生に迷ったのか?
Yes
ならば「シェルダリング・スカイ」にしやがれ!
2013年10月15日火曜日
「パリ、テキサス」不器用な愛の映画
愛しているのに一緒にいることができない、、、
これは不器用で哀しい家族の映画だ。
家族を愛する男がいる。
彼は愛がとても強い。でもその強い愛のせいで逆に家族を不幸にしてしまった。
心を痛めた男は、やがて愛する家族から一人去っていく。
パリ、テキサス
ヴィム・ベンダース、ロードムービーの傑作である。
この映画をはじめて見たのは19歳の時。三鷹の名画座だ。
記憶を無くし行方不明になっていた一人の男、トラビスと、まもなく10歳になる息子が、6年ぶりに再会した。
離れ離れになっていた3人の家族。
トラビスは、息子と共に別れた妻を探す旅に出る。
台詞は僅か。静かに進行するストーリーに、時折ライ・クーダーのスライディングギターの音が、登場人物たちの震える心の叫びのように聞こえてくる。
ラスト、一度は離ればなれになった家族は、再会しその絆を確かめ合う。でも彼は再び妻と子の前から去ってしまう。
トラビスが妻と子から去って行くことも、はじめて見た時は気付かなかったかもしれない。
まだ子供だった僕は、正直この主人公トラビスがとった行動がよく判らなかった。
やがて家族を持ち、自分の命が、自分だけのものではないこと。自分よりも大切な人がいるということを知った。
いつかトラビスが家族の元を去った訳が判るようになっていた。
飾り気がない、恐ろしく淡々とした地味な映画。
でもこの映画は、僕の最も愛する映画の一つになる。
そして今、このトラビスの静かな苦しみを一層痛くリアルに感じることができる。
トラビスは自分の理性をコントロールできない男だ。
時に激興して家族を傷つけてしまう。
それでも家族は、トラビスと一緒にいることを望んでいた。
トラビスも、深く家族を愛していた。
再び家族と暮らし始めることで、また昔のように家族を傷つけてしまうかもしれない。。。
だからこそ、家族を傷つける自分を許せなかった。
そして再び家族の元から姿を消す。
それが不器用なトラビスが唯一できる精一杯の愛情表現だったのだ。
あまりに勝手だ!
自分勝手過ぎる。
家族を捨てる。よくいえば家を出て行く。
愛する者の前から、去らなければならない。
それが家族の幸せを得るための一番の選択だなんて、、、
愛し過ぎるために、愛する家族と一緒に過ごすことができないとは、なんて哀しい話なんだ。
家族もまたトラビスのことを愛している。
だから妻はトラビスが家族の元から去ることを知っている。
あえて止めない。いや、止めることができないのか。
家族が別れ離れになる、それが家族にとっての一番のハッピーエンドだなんて、あまりに切ない。
この映画のトラビスの旅は、家族を壊したことへの彼なりの償いであり、最後の別れは、妻と子を愛するが故の、身勝手だが勇気ある決断なのだ。
それはトラビスにとってハッピーエンドでないだろう。
愛が強すぎるトラビスの生活にハッピーエンドは訪れない。
この先、自分の知らない地球のどこかで、妻と子が強く逞しく生きていければ、それでいいのだ。
自分自身の気持ちや幸せよりも、家族の幸せを何よりも優先しようとするトラビスの勝手で一途な愛、男の意地にぐっと来る。
己の幸せは、自分の内側ではなくて、自分の外側にある。
泣ける。
たまらないほどに、、、
人生は杓子定規にはいかない。
これは不器用で美しい愛の映画だ。
トラビスの我がままな愛の強さを否定できない。
じっと黙って見て、静かに泣きたいなら ───
「パリ、テキサス」にしやがれ
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