2013年12月22日日曜日

「ギャング・オブ・ニューヨーク」 暴力に涙する



神と暴力のミックスジュース監督、マーティン・スコセッシ、渾身の一作!

ギャング・オブ・ニューヨークは、たくさんの人間が登場する大作だ。
その映像のスケール感(金のつぎ込み様)、アメリカ建国の怒濤の時代の中に生きた人間の大河ドラマも圧巻だが、なんといってもこの映画がいいのは、見る者をそこに描かれる暴力に惚れさせてしまうところである。

この映画では、人はチャラチャラ殺したり、殺されたりはしない。
このギャング・オブ・ニューヨークの登場人物にはそれぞれの正義があり、まさに命を掛けて戦い、そして生きている。
映画は闘うことに真摯に向き合い、生きるために暴力を使う。
そこは、闘わなくては生きていけない時代なのだ。
暴力は、生きるための術であり、且つ深い敬意が払われている。
だから映画に登場する人々の暴力を肯定してしまえる。
暴力に満ちた世界が、美しくさえ思えるのだ。
この気持ちは、反社会的なものなのだろうか?

現実の世界で、生き物は、全て生きるために厳しい競争に勝ち残らなくてはならない。
なのに同時に、私たちは、暴力はいけない、仲良く、平和でなければいけない。
もちろん平和は価値あるものである。
しかしながら、その時代や場所によっては、暴力100%NGとはっきり白黒つけた考え方では生き残れない。
平和の裏側、底辺には、必ず暴力がある。
このギャング・オブ・ニューヨークは、格好をつける形だけの暴力とは違い、戦いに挑む潔さがある。
人は時に平和を手にするために、もしくは家族や仲間を守るために暴力を使わなければならないのだ。
それを誰も完全に否定できない。
人はイエス・キリストのように左の頬も差し出せないから、祈り、自分の罪に懺悔する。
暴力はよいことではない。でもやはり必要な時もある。
人には戦かわねばならない時がある。
世界の法則に沿って、戦いに勝ち、強い者として生き残り、子孫を未来へ繋ぐ必要がある。
僕らは平和と暴力が相対するグレーの世界に生きているのだ。


僕自身のことを考えれば、人とちゃんと喧嘩できないまま大人になってしまった。
だがらよくも悪くも他人と喧嘩をして育ってきた人を見ると、ちょっと憧れの大人に見える。
喧嘩をすれば勝ったり負けたりする。その勝敗は、時に恍惚となったり、痛みや挫折でやるせなくなったりするだろう。ただイメージとしてそんな暴力について思いを巡らせられても、身体では理解できない。暴力は頭でなく身体でしか覚えられないのだ。
そんな喧嘩とは、男が大人になるための通過儀礼のようにさえ思える。
だから一層、こんな清く闘う男たちの世界に憧れてしまう。

この映画での戦いの中心は、主人公のレオナルド・ディカプリオと、子供の頃我が父を殺した宿敵、ダニエル・デイ=ルイスにある。
父への復讐を誓い大人になったディカプリオは、ダニエル・デイ=ルイスを殺すチャンスが幾度も訪れる。
しかし彼を殺すことができず、親近感と緊張感がどんどん増幅していく。
ディカプリオは、自分の父を殺した宿敵に、惹かれしまっているのだ。
やがてダニエル・デイ=ルイスも、ディカプリオが復讐のために自分に近づいた宿敵だと気付き、堂々と正面から戦いを受ける。
男なんだよね!
戦いは手下など他人にはやらせない。自分で決着をつける。
この映画は、将に男が男に惚れる映画だ。
ディカプリオもいいが、敵役のダニエル・デイ=ルイスが本当にしびれる。
そんなしびれる男同士のラストは、互いにガチで正面から戦うのだ。
やはりしびれる映画の、男同士の最後の戦いは、一対一のタイマンなんですよね。
しかし、そんな無骨に戦う彼らの傍らで、時代が激流のごとく押し寄せ、流れ、彼らは時代に置き去りにされ消えていく。
そのラストの虚無感の演出も、またしびれるストーリーなのだ。
タクシードライバーでの、孤独から発したいたたまれない狂気の暴力から、いい意味でも悪い意味でも大人になったマーティン・スコセッシの暴力。
僕の中のスコセッシのアカデミー賞は、(傑作のリメイク映画でなく)このギャング・オブ・ニューヨークで決まりです!

己の正義を問い直したい時 ───
誰かと戦いたい時 ───
ライバルと競っている時 ───
喧嘩に負けた時、上司にいびられた時、友達にいじめられた時 ───
そんな時は、身体でも鍛えよう!!!
そして、鍛えながら、映画でも見よう!
そう、映画は、このギャング・オブ・ニューヨークだ。
そして、スコセッシの映画のモチベーションである、暴力と神のミックス描写の頂点を目撃すべし。

さあ、暴力に涙したいなら、「ギャング・オブ・ニューヨーク」にしやがれ!

追記
本作は、2002年のアカデミー賞にノミネートされたが、何も受賞はならず。残念。そして数年後、2007年、マーティン・スコセッシ監督は「ディパーテッド」で作品賞、監督賞を受賞する。(「ディパーテッド」はオリジナルの傑作「インファナル・アフェア」を見てから見ると、なんだか哀しい)主演のレオナルド・ディカプリオとは、ほか、2004年「アビエイター」(辛い話だが割と好き)、2009年「シャッター・アイランド」(この映画は何故やろうと思ったのか謎)と組んでいて、タッグ5作目は、2013年「ウルフ・オブ・ウォールストリート」となる。この映画は、これまでのディカプリオとは毛色が違って、悪のりC調ぽっくて期待中。さて、ディカプリオとスコセッシのタッグここまでいくと、デーニロとのタッグ数(2012年現在で8作品)を越えるのを狙っているのか!?なんて思ってしまいますね。楽しみ。ほほほ。


2013年12月10日火曜日

「サクリファイス」世界を救うための敬虔な祈り



明日、世界が終わるとしたら、私たちはどうするだろう?
もしその世界の終わりを自分を犠牲にすることで防ぐことができるなら、自分は立派にその使命をやり遂げることができるだろうか?

サクリファイスは、突如戦争が勃発した日のあるありふれた田舎の一家を描く。

映画のタイトルは犠牲。
監督のアンドレイ・タルコフスキーが描く犠牲は、アルマゲドンのような英雄的なものではない。
戦争について詳細は一切語られない。描かれるのは世界の終わりに対峙して、戸惑い嘆きうろたえるごく一般の人たちである。
主人公の一家も世界の終わりが来たとおののき、打ち拉がれる。しかし主人公は自分の子供、そして世界の人を救うために魔女だと噂される女に知恵を求め、やがて救済の生贄として自分の家に火を放つ。
彼は狂ったのか、それとも世界を救おうとする聖人なのか。

この映画には普通の映画にはない、何かが宿っている。
タルコフスキーの映画、、、それは神を宿した「聖なる映画」だと僕は思う。
人は、人々の罪を背負いを救うために死んだイエス・キリストのように生きれるのか?
タルコフスキーはそんな大いなる問いを問い続けた人間だった。
しかし当然普通の人間はイエスのように生きれない。
でも、それでも人間にはイエスのように生きれる魂を、どこかに秘めているのではなかろうか。
それがタルコフスキーの願いであり、描きたいことであったように思えてならない。

サクリファイスの主人公が神に対してとつとつと救いを求め語り祈る長回しのシーン───
主人公が、まるで見ている私たちに救いを求めているような錯覚を覚える。
あまりに切実な願いに、何もできない我々は逆に戸惑い、あまりの緊張感に耐えられなく、逃げ出したくさえなる。
その大真面目な祈りに身の毛がよだつ。
タルコフスキーの映画は全てが神への畏敬の念と、深い、恐ろしくどこまでも深い愛に満ちている。
映画を見終わった直後、自分の日常の些末な欲望がチリチリと焼けて消滅してしまう。
普段の自分はなんて細かくてつまらないことにぐじぐじしているのだろう。
自分や家族、周囲の仲間はもちろん、世界に役立つために自分に何ができるか?
を真剣に考え、実行するべきなのだ。
聖書が単なる書物ではないように、タルコフスキーの映画は単なる映画ではない。
タルコフスキーは、映画を、人々の感情を揺り動かすドラマの枠を超えて、心よりどころとなるような聖なるものへと高めようとしていたのではないか。

サクリファイスを見た後は、見る前とは違う人生を歩まなければならない。
でもそれは簡単ではないだろう。
私たちは、例えイエスの決断が素晴らしいと感じていても、イエスのようには生きれない。
私たちを突き動かすこのイエスの決断とはかけ離れた日々の欲望を否定はできない。
その欲望こそ人間が生きる源だからだ。
タルコフスキーだって完全聖人ではないだろう。
だからこそタルコフスキーは深い愛を込めて映画を撮り続けた。
タルコフスキーはまさに命を削って映画に命を吹き込み、神に召され若くして死んだ。
タルコフスキーの映画は娯楽とか芸術とかを越えている。
生や人生を問う手段。
まさしく敬虔な祈り。
タルコフスキーの命、祈りそのものなのだ。
だからタルコフスキーの映画は、映画自体が生きて、静かに鼓動を打っている。
フィルムを切れば血がしたたり落ちてくるだろう。
まさに魂が宿った映画だ。

もしあなたが日々の業に埋もれてしまっていたら、一人落ち着いた時間を作って、じっくりとタルコフスキーの映画を見てみて欲しい。
時には大真面目になって、日頃の業を洗い流し、人間が生きることについて静かに想いをはせたい。
そんな時はまず、自分が世界を救うために何ができるかを問いかけてくる、「サクリファイス」にしやがれ!

2013年12月5日木曜日

「ヴァン・ゴッホ」 静かにうねり燃え尽きる情念



フィンセント・ヴァン・ゴッホ ───。

生前と死後で、これほど評価の落差が激しい人間はそういないのではないだろうか。
今や世界中で誰もが知る画家は、生涯で描いた3000枚の絵のうち、生前売れた絵はたった1枚とも言われている。
芸術家にとって、生み出した作品が誰にも評価されないという現実ほど、創作活動を続けていくのに過酷で恐ろしい状況はないであろう。
そんなフィンセント(敬意を示すため姓でなく名前で呼んでみる)の人生が、言い知れぬ深い絶望や孤独に苛まれたものであったと想像に難くない。
実際にフィンセントは、自分の絵に対する信念が周囲に受け入れられず、錯乱し、自ら精神病院に入院した時期もあった。
だがそれでもフィンセントは、約10年間、自ら命を絶つ間際まで絵を描き続けた。
彼は、評価されずとも、自分の絵に、誇りと信念を持ち続けていたのだろう。
そうでなければ、3000枚の絵を描き続けることなどできないに違いない。
画家は絵を描くことこそ、生きることそのものだ。だから生きるためには、評価されなくても絵を、描き続けなければならない。もう、どうしても絵が描けなくなてしまう瞬間が訪れてしまうまで。。。


この波乱に満ちたフィンセントの人生は、きっとどこを切り取っても映画になるだろう。
フィンセントの生活、金銭面を援助し続けた画商の弟、テオとの関係。
画家の信念を戦わせ友情を築き上げようとしたゴーギャンとの蜜月と破局。
労働者をモチーフにした重々しいオランダ時代を脱し、印象派の技術を磨いたパリ時代、そしてフランス南部のアルルでの色彩の開花。更に、色彩が溢れ、うねるような情念のタッチを作り出した死までの道のり。
この映画は、そんなフィンセントが、アルル〜サン・レミを去り、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズを訪れた、死に至る最後の2ヶ月間を切り取った作品である。

この映画で描かれるフィンセントは、炎の人ゴッホというイメージからかけ離れるほど静かで、人間味やユーモアがある。
僕が思い描いていたフィンセントのイメージは、震え立つ情念を押し殺した無骨で無口で堅物の男のイメージだった。
(未見だが、カーク・ダグラスが演じた映画のゴッホはそんな雰囲気に近いかもしれない)
なにしろ、フィンセントが残した絵の荒々しいタッチとあふれる色彩が醸し出すパワーや情熱が、10年間ほとんど評価されずとも絵を描き続けたという事実と重なることで、その絵にかける情熱の熱さと大きさが、より尋常ではないと想像できるからだ。きっと本人は、その情熱の炎が後光のようにその背面で絵筆のタッチのようにメラメラ燃えているような人だろうと勝手に想像が膨らんでいた。
だが、この映画のフィンセントは、少々変わっているところもあるけれど、一見どこにでもいそうな物静かなごく普通の人に見える。
しかしその肩すかしを食らったような静けさが、実は崖っぷちすれすれに追いつめられていた境遇から発せられるものだと判ってくると、逆に何気ない日常の中だからこそかえって、無言の緊張感が見る者に避けがたい重みを与えてくる。
フィンセントが秘める重圧、恐怖、絶望、孤独。
やがてフィンセントの心は、このオーヴェルの地に来た時点で、もはや死と生とのギリギリを彷徨っていることに気付き、身体が強ばる。
映画で、フィンセントが無言の叫びを発している。
フィンセントの心の奥に秘められた叫びを、この映画は静かに語りかける。その叫びだけを察するだけの映画だと、きっと映画を正視することに居たたまれなくなるだろう。だから、映画は絵を描いている時間と同様に、周囲の人たちとのユーモアある交流を見せる。

ほっとさせるのが、フィンセントを支援してくれる医師のポール・ガシェの家族や弟テオ夫妻とのランチシーンだ。
ガッシュやフィンセントが組んで皆を笑わせる瞬間が、過酷な境遇の中にも人間には必ずユーモアがあることをさりげなく見せてくれる。

また圧巻なのは、パリに行き、弟テオと生活費の負担のことで仲違いした夜、カフェ(パブ?)で、みなと酒を飲み乱痴気騒ぎをして過ごす一晩の描写だ。
(フィンセントは、アルル時代、有名な「夜のカフェ」を描いたとき、「カフェは人を破滅させることも発狂させたり犯罪者にさせたりすることもできる場所であることを表現したかった」と語っている)
弟のテオ、そして娼婦や、肉体関係を持ったガシェ医師の娘マルグリット(この関係は映画の創作らしい)たちと一組づつ腕を組んでステップを踏み、やがて全員がつながり一列に並ぶダンスが、圧倒的に素晴らしい。この時代に生きている人達の、些細なこと、重大なこと、その全てをひとまず棚に上げて、ただただ無心に踊る、その生の瞬間に圧倒され飲み込まれる。
更にその後、フィンセントに訪れる朝、まだ生きている恐怖。マルグリットとオーヴェルに戻る列車の中で、生きることも死ぬことも絶望でしかないその身に、孤独と重圧が一気に押し寄せて来る。

とにかく映画はフィンセントの境遇を細かく説明しない。
だからフィンセントの無念の叫びが聞こえなければ、乱痴気騒ぎをしたフィンセントが、何故拳銃で自分の腹を撃ったのか判らないだろう。
人生は辛いことだらけかもしれない、それでも生きた、最後もう情念の絵筆を走らせられなくなるぎりぎりまで。
フィンセントの悲痛だけれども、人を揺り動かす多くの傑作を描き続けた人生に敬意を示し、その秘めた情念の生き様を静かに見せてくれたこの映画と、それを日本で上映してくれた(追記1)人たちに心から感謝したい。

もし人生に絶望にする時があれば、この映画のフィンセントを見て、死ぬまでは己の信念を持ち続け、やり続ける勇気を学べるかもしれない。
震え立つ情念を静かに持ち続ける人間の生き様に圧倒されたければ、この「ヴァン・ゴッホ」にしやがれ!


追記1
本作品、監督はフランス人のモーリス・ピアラ。制作と公開は1991年。それからおよそ20年の月日を経て、イメージフォーラムで監督の没後10周年を記念し本邦初公開された。

追記2
少々わがままをいえば、このフィンセントが最後にたどり着いた絵画の境地=つまり、うねる荒々しい絵筆のタッチをふんだんに使って絵を描く行程が見たかった。唯一キャンバスをアップで追うショットは、筆ではなくてペンティングナイフが使われていたが、フィンセントは実際ペンティングナイフも使っていたのだろうか?
ちなみに現代絵画では、モチーフは正確にデッサンされていなくても(つまりフォルムが狂っていても)絵画として認識してもらえるが、フィンセントの印象派〜ポスト印象派の1800年代後半の時代はまだデッサンの正確さが絵画のよさを決める重要な指標であったのだろう。だからフィンセントのデッサンが崩れた(象徴的なデッサンの)絵は、当時は前衛過ぎて、多くの人に理解されず、ただ下手くそに見られがちだったと想像できる。この映画の中でも、頭の弱い青年に気が進まずに肖像画を描いてあげたら、僕はこんな耳をしてないと文句を言われてしまう。そんな弱者にさえ否定されてきた哀しみがフィンセントの絵にはある。

追記3
最後のフィンセントの自殺のシーンが、とにかく物悲しい。映画中盤で一人部屋で拳銃を頭に当てるシーンもあるが、この最後の時は、屋外で自分の腹に打ち込んだ。だからフィンセントは数日生きている。狭い下宿部屋のベッドに寝かされて、皆が起きると死んでいる。その無惨で美しくない死に様がフィンセントの苦悩を深く表している。
また映画はこのフィンセントの死で終わるが、このヴィンセントが死んで1年後に弟のテオも亡くなっていることは全く感慨深い。