2013年11月7日木曜日

「オン・ザ・ロード」胸が熱くなる破滅的で美しい青春


ビートジェネレーションの傑作、ジャック・ケルアックの小説、"路上"「オン・ザ・ロード」が映画化された。

この50年代に一斉を風靡した伝説の小説 ───。思い返せば 20代の頃、すすめられ読んでみたが、読みにくくて途中で挫折しそのまま放置してしまった本である。あの伝説の小説が映画化された!しかもプロデューサーは、フランシス・フォード・コッポラ!うむー。
若いうちに読むべき本を若いうちに読み損ねてしまった口としては、今さらだが、映画は見逃してはならないだろう。と勇んで映画館へと向かう。

しかし、50年代の古い小説が、何故半世紀以上を経た今頃になって映画化されるのだろう?
それは小説を開いてみれば、想像に難くない。
小説には、当時の時代の若者の疾走感が、決まった筋立てはない中で、落ち続ける滝のような文章でつづられている。
映画化の方法論は沢山あるかもしれない。けれどもこのような小説を、ミッションを受けそれを達成するような手法が基本である映画に昇華させるのは、正に困難な仕事に違いないのだ。だが、その困難な仕事を克服し、映像化して残すことこそ映画人の使命でもある。
出版後、映画化権を得たコッポラは、きっとその困難な使命を諦めず、コンコンと練り続け、そして「モーターサイクル・ダイアリーズ」の監督、ウォルター・サレスと半世紀以上を経て遂にその難産をようやく成し遂げたのであろう。映画の神様は将に映画的だ!
では、映画ファンにできることはなにか。そうだ、善きにしろ悪きにしろ、その映画をその瞬間、眼に焼き付けることくらいなのである。

しかし、この映画は始まるや否や、再び挫折してしまうのではという一抹の懸念を壮快に吹き飛ばしてくれる。
確かにこの映画は、確固たるストーリーを持ってはいない。だが、力強くエモーションを喚起し続ける奇跡のような映画であった!
おお、一時代を作った小説が、また映画の傑作として甦るとは、こんなに嬉しいことはない。
映画からはいきなり、1940年〜50年代という終戦直後の人々の生きようとする時代の空気が、むんむんとわき立ち、見る者をその渦の中に一気に巻き込む。
そこには、生きるという瞬間、瞬間が、映像に刻まれている。その瞬間一つ一つには、深淵なる意味はないかもしれない。だが、とにかく人が生きているのだ。
原作の詩のような語り口を、映画という表現に見事具象化した監督はじめスタッフ、出演者の尽力に心から感謝したい。本当、これは映画好きには必須の作品です。

映画は、一言で言えば「破滅的な生き方しかできない男に魅せられ、共に路上放浪する話」である。
主人公の小説家、サルが魅せられる、その破滅的な生き様のディーン(ギャレット・ヘドランド)が、とにかく圧巻だ!
凄い面白い奴がいるんだよ。とサルは友人に誘われて、そいつの家に押し掛けた。ドアを開けると、フルチンで出て来る男がいる。それが噂のディーンだ。女とセックスしていたのだ。女とセックスしているのに、それをやめてドアを開けるなんて、なんて憎めない男だ。(彼はその後でもいつでもフルチンでドアを開けてくれる!)しかも家に招き入れるなんて、いい奴なんだよ。(入る方も入る方だけど)女だけでなく、男も惚れてしまうような、生かした男前。でも、まともじゃない。この無遠慮さが、なんともたまらない。サルはその瞬時にこの破滅的な生き様のディーンに魅せられ、旅が始まるのだ。欲望の赴くまま、セックスしたい時にし、ふざけて笑い合い、飲み、放浪し、ばか騒ぎを繰り返す。自堕落に、そして情熱的に ───。

若者の時は、人の迷惑なんて考えないし、何をやっても怖くなかった。何が悪くて悪くないか知らなかったし、行動がどんな結果を招くかいちいち気にしなかった。とにかく気のむくまま、何のしばりもなく、好きな時間に起きて、好きなものを食べ、好きなことをして、好きなだけ寝ていた。僕はこの映画の登場人物のように全然格好よくないし、社交的でもない。けれど確かに、浅はかながらも熱いものがあった。そんな自分の若い時のバカバカしき日々を思い起こして熱くなる。

映画を見ていると、彼らはとことん遊んでばかりでうっとりする(一応時々仕方なく?日雇い仕事をしているのがまたよい)。
このサルたちを突き動かすものは何だろう。
サルは生きることに飢えているのだ。何故生きるのか、身体を持って、体験しようとしている。確実に生きてることを確認するべく刺激を求める。
サルやディーンがキラキラしているのは、生の刺激を一杯に受け、思い切り生を謳歌している。思う存分生きてるからなのだ。世界は未知なるもので満ちていて、いくら生きても飽くことはないのだ。
しかし、当然終りが来る。好き勝手をしていられるのは若いうちだけだ、やがて人は結婚したり、仕事や家族を持ったりして、自分以外の人のために、社会のために生きる必要が出てくる。サルもそうだ。だが、ディーンは、その自然な流れに乗ることができない。もしくは流れに逆らって生きることしかできない。
だから最後の瞬間まで高まる疾走感を終え、突然やって来る哀しいラストの焦燥感に、再び胸が熱くなる。

映画が終り、映画館を出て、20年以上に座り込んだことのある、汚れた新宿の路上を家路に向かって急ぐ。
いつからか、彼らのような衝動がなくなってしまったように思える。
つまらない大人にはなりたくない ───と、学生の時にいつも聞いていた佐野元春の歌が、僕の頭の奥でなり響いた。
そう、僕はもう立派な大人だ(少なくても年齢や立場は)。だがつまらなくない大人にいつなれるのだろう。ちゃんとした中味のある大人にいつなれるのだろう。
そうだ、だからもっともっと生きなければならない。衝動を持って。情熱を持って。

生きていることに熱くなりたかったら ───
生きてることを思い出したかったら ─── そう、この「オン・ザ・ロード」にしやがれ!



追記1:
本作が誕生するまでの制作秘話も面白い。もともと作者のジャック・ケルアックは、ディーン役をマーロン・ブロンドに直接打診したそうだ。またコッポラが映画化権を得て、映画化できるまでの30年間、ディーン役には、ブラッド・ピットやコリン・ファレルの名があがったらしいが、企画が流れてしまった。どんなに気にいった脚本や企画でも、歳をとってしまっていたら、若きディーンを演じることができない。そう思うと若かしり日のブラピ版のディーンも実に見てみたと感慨深くなる。

追記2:
途中で登場するスリムゲイラードというミュージシャンが凄い!



2013年11月3日日曜日

「セブン」狂気への誘惑、そしてあまりに深い絶望


何故、この映画は、恐ろしく残酷でむごたらしい話なのに、こんなにも惹かれてしまうのだろう。。。

犯人は人を殺すことを楽しむサイコパスだ。
その犯行は、あまりに残虐で反社会的な行為である。
そして救いようがなく、悲劇的で惨たらしい結末。
本当に全くもって辛い酷い話なのである。
だけれども、僕はこの映画が好きだ。
何故なのだ!?

もちろん、この映画の美しい映像に惹かれる。

まずは冒頭の犯人の狂気を予感させるオープニング。細かい字でびっしりと埋め尽くされていく手書きの紙。その紙の一枚一枚を紐で編んでゆく傷だらけの指先。髪の毛やカミソリなどのクローズアップ。そこにスクラッチされるクレジット。それらカットの断片がわざと見えづらく神経質にモンタージュされていく。。。1995年の公開当時、このカイル・クーパーのタイポグラフィーは、映画のタイトルバックの作り方を革命したエポックメイキング的なものだった。

そして暗いニューヨークの路地裏、じとじとと降りしきる雨。汚れてカビ臭い建物の中で起きる薄気味悪い殺人事件。暗がりに緑のデスクライトがおぼろげに並ぶ図書館の静寂とそこに流れるG線上のアリア。古典の書物から拾われていく深淵な言葉。地下鉄の振動で絶え間なく揺れている部屋。などなど。。。それらシーンが、レンブラントの絵画のような光と陰のコントラストの強い映像で積み重ねられてゆき、閉塞感や緊張感を増していく。実にうまい。

また、淡々と語られるストーリーにも引き込まれる。

殺人課に新任した正義感に燃える血の気が多い刑事のミルズ(ブラッド・ピット)と、退職を1週間後に控えた寡黙で老獪なサマセット(モーガン・フリーマン)が、事件現場の謎をしたたかに解き明かしていくミステリー。そして、頭脳派の犯人が、より上手に追跡のヒントを現場に残しながら予告通り殺人を成し遂げていくスリラー。更に、犯罪に秘められた七つの大罪という人間の原罪を裁く深淵なテーマ。
ラストあっと驚く脚本と、そこに到達させるエモーショナルを完璧に具象化した完璧主義のデイビッド・フィンチャー監督。全てが素晴らしい。

だが、この映画が、単に怖くてハラハラする面白い話だけでなく、心に突き刺さって残るのは、犯人の恐ろしい狂気にいつか惹かれてしまうところだろう。
この映画を見ていると、全く不謹慎な話なのだが、正直、犯罪者を暴きたいという欲求と共に、この犯人が、ミルズたちの追跡を逃れ、見事7つの大罪(暴食、強欲、怠惰、肉欲、高慢、妬み、憤怒)の殺人を完璧に成し遂げることに、いつか期待してしまっている。
その瞬間、自分も狂気という悪魔に魅了されていることを否定できない。
この映画は、犯人と同様に、どんな人にも秘められた"狂気"を揺り動かし、まさに人の”大罪”を暴き、問う物語なのだ。

その"狂気"に魅せられる一番の代表者が、この映画の主人公、ミルズだ。
彼の狂気は、犯人を捕まえるという行為の虜になること。
この、ミルズの犯人を捕えるという闘志、好奇心、それこそが犯人のジョン(ケヴィン・スペイシー)、もしくは物語の作り手がが仕掛けた恐ろしい罠なのだ。

この追跡にのめり込んだ代償、それはミルズにとって最も大切な人、妻の死だ。
犯人のジョンは、ミルズの最愛の妻を殺す。
しかし、そのジョンの殺人を招いたのは、ほかならぬジョンを追跡したミルズ自身だったのだ。
犯人を見つけ出し捕えるという自分の仕事が、我が妻の死を招いてしまった。
自分がその衝動にのめり込んだばかりに、妻は悲惨にも死ななければならなかったとは。。。

妻を守るべき自分が、全く逆の行動をとっていて、それが、取り返しのつかない恐ろしい結果を招いたこと。そこに気付いた瞬間、これほどの絶望があるだろうか。
ミルズは、サマセットの制止を振り切り、ジョンを撃ち殺す。
最後に残った大罪「憤怒」である。
七つの大罪の殺人は、ミルズによって完結し、全ての裁きが成し遂げられた。。。
ミルズは、確かにジョンを捕らえることはできた。しかし、全てはジョンの思惑通り。この狂気のゲームに勝ったのはジョンだったのだ。
犯人は裁かれて死んだ。だが最後に残るのは、ただただ、深い絶望である ───。

これはジキル氏という自分の中の、ハイド氏の存在証明が行われる映画である。
人は、主人公と共に、自分の中のハイド氏の息遣いに気付く。
実は密かにハイド氏の狂気に魅惑を覚える自分がどこかにいるのだ。
自分の中の悪魔、狂気に気付かせる映画。。。
この映画は、全くもって危険で、挑戦的な映画だ。
これは、自分の中に潜む、悪、狂気に対峙するための、己の挑戦なのだ。
誰しもが秘める人間の大罪に対してどう対峙するかが投げかけられる。

自分の中で寝むっている狂気が、ぞぞぞと動き始める。その狂気の代償は生半可なものではない 。
自分の狂気は、自分の最愛のものを奪うことになる。
地獄に落ちるぞ!そのまま眠らせておけよ、しっかりと ───。

自分のなかに潜む狂気の度合いを確かめたいか?
ならば、「セブン」をおすすめする。
けれど、自分がその狂気の魅惑に勝てなそうな人は、この映画は絶対に見ないでください。

さあ、地獄に落ちる前に、絶望を思い知りたいなら、「セブン」にしやがれ!


追伸1
感情で生きているミルズに対し、感情を押し殺して生きているサマセット。この心の闇を抱えたまま静かに生きるサマセットも実にいい。
彼は、日頃から人間の恐ろしさに絶望している。いくら身を粉にしてもそれを人々を救う事はほとんどできない。
そう思いながらも知的探求に富み、恐ろしい事件の推理を組み立てていく渋く格好いいキャラクターと、それを演じるモーガンの品のよさが、この映画の品を更に高めている。
メモりたくなるサマセットの台詞。
「大事なのは何か一つをみつけて、それをくさるまで追求することだ」
「産まないつもりなら妊娠は内緒にしろ。だが子供を産むなら、精一杯甘やかして育ててやれ」
「ヘミングウェイが書いていた。「この世は素晴らしい。戦う価値があると」後の部分は賛成だ」

追伸2
犯人ジョン・ドゥ役のケヴィン・スペイシーは、さながらジョーズのようだ。映画の中でほとんど姿が見えない。けれども犯罪者としてかなりのインパクトがある。ジョーズにしても、エイリアンにしても、ほとんど見えない、だからこそ怖いというのは映画の鉄則なのかもしれない。