2014年2月23日日曜日

「イントゥ・ザ・ワイルド」若者の果てなき希望と絶望



この映画は、とても残酷で辛い結末なのに、見終わって、何故こんなにも清々しくいれるのだろう?
この映画には、若者が世界の中へ強く羽ばたき生きていくことの希望と絶望が詰まっている。
あなたがまだ社会に出る前の若者なら、今すぐこの映画を見て欲しい。
そして、もし自分が同じ立場やシチュエーションに置かれたら、どんな行動をとるか、想いをめぐらせて欲しい。

この話の主人公、クリスが、大学を卒業して家を出るとういう行動はごく普通の決断だった。
人の人生で、若者ほどセンスティブで傷つきやすい時期はないだろう。
若者にとって、世界の中心は自分であり、自分の命は自分のものであり、自分の人生を決める自由と恐怖が渦巻いている。
だから若者は今すぐ親元を離れ、育った家を出て行かねばならない。
人生には、たった一人、自分の居場所を探すべく、大きく限りない未知の世界へと飛び込んでいく飛躍の時が必要なのだ。
そしてはじめて自分自身の力で生きることがどんなことかを知る。
世界はあまりに冷淡であり、同時に寛容で美しい。
その幸福に気づかない若者は、今すぐに、それを身を持って知らねばならない。と僕は思う。
自分の自由と恐怖を昇華するのだ。
やがて、一人で生きるなかで、親の支援の大きさを知り、
愛する人ができて、愛することを知り、
子供が生まれて、人がつながって社会や世界や歴史になっていることを知り、
自分の人生が自分だけのものでなく、家族や世界のものでもあると知るだろう。

しかし、親元を離れたクリスは、普通の若者が目指す都会ではなく、それとは真逆の誰もいないアラスカ、荒野へ向かった。
クリスは何故、わざわざ生きることが困難な荒野へ向かわねばならなかったのか?
一見、クリスの行動は、人間や社会からの逃避に思える。理解しがたい行為だ。
だがクリスは、生きることを知るために、あえて人間のいない荒野へ向かったのではないか?
同時に、クリスの行動は、この世界には安全で幸せに暮らせる場所があるのに、人はその気になれば、死と背中合わせの過酷な場所へ行けるという恐ろしいまでの自由を突きつけてくる。
誰もしたがらないことに、クリスは挑んだ。
そして映画は、自由を選んだクリスに、自由であることの希望と絶望を見せつける。

特に衝撃的なのは、辿り着いたアラスカの地、クリスが空腹で倒れそうになりながら、食べ物を探し、巨大なヘラジカを仕留めるシーンだ。
なんとかしとめたヘラジカから肉を切り出し、それを燻して保存できるようにしようとしていると、虫がわいてしまう。
結局クリスは一口も口にすることがないままヘラジカの肉の全て、つまり命を無駄にしてしまう。
クリスは自分の無力さをまざまざと思い知らされる。
今わたしたちはスーパーに行けば肉を簡単に買える。買うものはすぐに食べられる肉であり、牛や豚ではない。
だから今のわたしたちに自分自身で動物を殺してその肉を食べることができる人はほとんどいないだろう。
そうして普段肉を買って食べることはごく気にならないほどの当たり前のことなのに、荒野では、一人では命を食べ物に変えることができない。
クリスがせっかく奪った命を無駄にして、全てが徒労に終わったと知る瞬間はあまりに辛い。
自分は自由でなんでもできるはずなのに、結局何もできない不自由さに絶望し、打ちのめされる。
自由は、あまりに過酷で厳しいのだ。

そうして空腹でやせ細ったクリスは死ぬ。
だがクリスの死はその事実よりは悲劇的ではない。
なぜならば、クリスはただ夢見るだけでなく、実際に荒野へ向かい、そこで生きることに立ち向かったからだ。
それは称賛されるべき行為だ。
クリスは、人が厳しい人生をあえて選択できるという人の自由を、身を持って証明した。
だから、衰弱して死ぬ彼を見なくてはならぬラストシーンで、その結末の惨さに反比例して彼への称賛の気持ちがが押し寄せてくる。
死んだ魂のごとくパンアップし空に舞い上がるラストショット。虚しいはずなのに、清々しく感じてしまう。
クリスはその偉大な経験を、彼の人生に生かすことはできなかった。
荒野へ向かい死んだクリスは馬鹿者だったのか?
多分その通りだろう。
でも決して誰も彼を馬鹿にできない。
彼は行動した。
誰よりも強く、無謀に。。。

人は荒野へ向かうべきだ。
たとえ若者ではなくても。
いつでも。
どこでも。
そして何度でも死んで生き返り、また荒野へと向かうのだ。
きっと誰もクリスの行為を真似できない。
でもその"無謀な心意気"は、真似るべきなのだ。

もしあなたが若者なら、
親元を離れ、美しくも厳しい広大な世界に向かって飛び込みたいなら、
自分の居場所に絶望していたら、
今とは違う偉大な未来を夢見ていたら、、、
「イントゥ・ザ・ワイルド」にしやがれ!


 2007年。ショーン・ペン監督。

2014年2月10日月曜日

「ウルフ・オブ・ウォールストリート」破滅へと突っ走る、人でなしたちの破天荒で痛快な喜劇



愉快、痛快、大爆笑 ───!
人でなしのディカプリオ、最高です!
証券詐欺で、人をだまして金持ちに成り上がる人でなしたちの、破滅へと突っ走るハチャメチャなサクセスストーリーである。
なんと映画の80%に渡って、登場人物たちが切れまくる!
アドレナリン全開の馬鹿まるだし!ディカプリオ、わめきまくりです。
テンション高過ぎで、叫び、暴れ、唾もよだれも尿もスペルマも全てをまき散らしながらメチャクチャやり続けてくれます。
酒池肉林に留まらず、薬をヤリながら仕事をして、人をだまして金を巻き上げ、豪快に浪費、豪遊し、狂乱し、欲望のおもむくままに突き進む。
その登場人物たちのダイナミックな傍若無人ぶりに、面食らってのけ反ります。
隣にいたら超迷惑な奴ら。けれど、こんなパワフルな人達、見たことない!!
悪事のレベルに反して、彼らと一緒に気持ちは高まり浮かれちゃう!
映画を見るだけで、全く倫理に反する危ない陶酔を味わってしまえる映画なのである。

レオナルド・ディカプリオ演じる主人公のジョーダン・ベルフォート(通称ウルフ)は、本当に冗談のような男だ(失礼)
彼の巧みなセールストーク、話術は本当にスゴイ? Yes
その絶妙なトーク、または違法行為で、彼は人をだました? Yes
つまり彼は人の欲をあおった? Yes
彼を信じてしまった被害者も、欲にかられた? Yes
けれど短い間だが、彼に夢を見せてもらった? Yes
彼がそうして次々と人たちをはめていく様は爽快か? Yes
しかも彼がそのトークの技を、社会のくずのようなドラックディーラーに手ほどきし、彼らが素直に身につけ、会社がどんどんでかくなっていくのは大したものだ? Yes
そしてその結果、彼とその仲間が大金持ちになってゆく様は、見ていて快感だ? Yes
ジョーダンも仲間も本当に人生を楽しんでいる? Yes
けれどやっぱり、彼らは人でなしである? Yes
彼も仲間も狂っている? Yes
それでも彼らのパワフルさには圧倒され、思わず楽しみ、正直惹かれる? Yes
彼と仲間の突拍子もないハチャメチャな生き様に、一緒に熱狂した瞬間があった? Yes
おっと、そうなんだね。なら、気をつけな。彼らが突っ走っていく先は、破滅だからね。一緒に落ちないようにね。うふふ。

そう、思えば本作品のマーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」や「ギャング・オブ・ニューヨーク」の登場人物たちも同じように破滅に向かっていた。けれど、この映画の登場人物はこれまでのスコセッシの映画のように苦悩に満ちてないところが逆に嬉しい。同じ破滅に向かっていても、底抜けに陽気で明るく馬鹿で痛快だ。
罪悪感を持たない彼らは確実に反社会的だけれども、憎めない。
なぜなら、もともと彼らは、やり手には見えないドラッグディーラーなど社会のはみ出し者だからだ。そんなダメ人間たちが、主人公ジョーダンの話術を素直に吸収し、実践し、ジョーダン同様に顧客を獲得し、その達成感に快感を得ていく。やり方は間違っているが、ダメ人間なりに、人生を謳歌している、努力しているのだ。だから彼らの快感に共感して嬉しくなってしまう。
間違っていると判っているのに、惹かれてしまう。
正しくないことに惹かれる ───。その人間の面白さと、先の悲劇を、説教をせずに永遠と見せつけてくれるところがまたイイ。
馬鹿を続ける彼らの姿を永遠見続ければ、誰だって最後は呆れ果てて、哀しくなってくる。
その行く末は、社会の制裁。そして彼らの家族のように、皆離れていってしまうのだ。。。
真面目に言えば、この映画は、強欲な登場人物たちの強欲な生き様をとことん見せつけることで、その行き過ぎに警鐘を鳴らしている。

でもふと思う。日本人には、こんな笑っちゃうほど罪悪感ない強欲人間はどれほどいるだろうか?
ウルフたちの生き方、考え方と行動に呆れると同時に、そのパワフルな欲望を自制しない生き様に、羨望を抱かずにはいられない。
人でなしの彼らからみたら、満員電車に疲れ顔で通勤する普通の人達は、何が面白くて生きているのか判らないゾンビのように見えるのだ。
実は僕らも、人でなしの彼らと同じように何かが間違っているかもしれない。

この映画は、人の欲望についての映画だ。
欲望は、人が生きるための潤滑油だ。
人に、欲望が足りなければ、面白みがない味気ない人生になるが、欲望が深すぎれば、どこかで破滅する。
この人間の欲望の果てに、文明社会が発達し、豊かに便利になり、同時に世界が破壊されていくのだ。
強欲は正しいか?
いいや、正論でいえば正しくない。
けれど強欲だからこそ、キラキラ光っている時もある。
だから、無欲で平凡で人でなしにもなれていないぼくたちは、ウルフたちの爪の垢くらいは飲むべきだろう。
たんぱくならば、欲を出せ!
もっともっと欲張りになるべきだ!破滅の沼に落ち入らない程度に ───。

馬鹿を見て大いに笑いたい。欲張りで、パワフルになりたい。でもちょっとだけ真面目に生き方を考えたいなら、、、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」にしやがれ!


追記1
映画の冒頭、証券マンとしてウォール街の一流証券会社に就職したジョーダン役のレオナルド・ディカプリオの面倒を最初に見てくれる先輩証券マン役が、マシュー・マコノヒー。この二人のランチシーンに、のっけから大爆笑。マシュー・マコノヒーのキャラとその演技が最高なのである!ランチしながらドラッグをやり、妙ちくりんな歌を歌う。そして顧客が株で儲けたら、必ず別の株を売ること。顧客から手数料を取ることだけに専念しろというアドバイス。その非人道的な理論を正しいことのように静かに淡々とユーモアを持って語るマシューにディカプリオが打ちのめされ洗礼を受けるのだが、同時に観客もマシューの演技に洗礼されてしまう。マシューはこの冒頭とほんの数シーンしか出て来ないのだが、映画の方向性を決める強烈な印象を残してくれる。このランチシーンだけ何度も見返したい!マシュー最高です!
(マシュー・マコノヒー、2013年公開の「ペーパーボーイ 真夏の引力」も凄い役&演技でした。)

追記2
本作全編に渡って面白いエピソードがてんこ盛りなのだが、次に圧巻なのは、ジョーダンが、相棒ドニー(ジョナ・ヒル)と発売禁止になった幻のドラッグ(通称レモン)をキメて修羅場になる一連のシーン。二人とも、歩けないほどトリップしたところ、最後ドニーが食べ物をのどに詰まらせて死にそうになる。ヨダレをたらしながら這いつくばってそれを助けようとするディカプリオ。恐ろしく真剣なシチュエーションなのに、ふらふらぐでぐでのお馬鹿な動きでその困難を乗り越えようと格闘するディカプリオ。その間抜けさと反比例するようにディカプリオの名演技に参ります。

追記3
馬鹿なことを真面目に永遠やり続ける登場人物たちを描く凄い映画と言えば、「ビッグ・リボウスキ」が真っ先に思い出されるが、この映画と比べてみると「ウルフ・オブ・ウォールストリート」は強欲社会への警鐘的意味合いが強い大変真面目な映画であることが判る。笑って楽しめる映画が笑い事か、笑い事でないかという違いである。

2014年2月2日日曜日

「ツリー・オブ・ライフ」果てしなき俯瞰から眺める"命"の世界


思い切り期待を裏切りられた!
ブラッド・ピットとショーン・ペーンの濃厚な父子話を期待してたのに、そんなドラマは微塵もない。
僕は、そのあまりの裏切り様に、笑ってしまった。(もちろん、笑える映画でもない)
けれど、僕はこの映画が、面白かった。恐ろしく、最高に、お気に入りの映画だったのだ!
そこには自分の期待を遥かに超える、濃厚な時間があった。
それはとてつもなく驚異的な世界観だ。その予想外の体験に、僕の心は反響した。
こんな映画の表現が、まだ世の中にあったんだ ───!!
映画を見る間、映画そのものより、その"未知との遭遇"を味わっていることに感動して、映画館の椅子の中に沈んで行ってしまいそうだった。

しかし、何故、この映画は、面白いんだ????
それを解き明かすことは、この映画を面白いと思う人の使命に違いない。
なぜなら、この映画はきっと、大概の人に受け入れ難い映画であるからだ。
この映画を、普通に真面目に見たら、きっと意味不明で訳がわからないものだと思う。
それは、この映画に、普通の映画にあるセオリーがないためだ。
つまり、「主人公が避けられない困難に遭遇し、それに立ち向かい、乗り越え、何かを成し遂げ、または失敗挫折し、カタルシスを得る」─── という流れだ。
もし見る人が、そんな映画らしさ(映画の達成感)を期待してたら、この映画は見るに堪え難い代物であり、無惨な体験をするだろう。
僕は、この達成感を抱く映画を否定してる訳ではない。
スターウォーズ、ロッキー、ET、スタンド・バイ・ミー、用心棒、素晴らしき哉、人生!などなど古今東西の名作映画の数々、、、
それら主人公の行動を緻密に積み上げて感動させる映画の美しさ、楽しさに魅せられている。
例えそれが悲劇的な結末になろうとも、主人公が困難に立ち向かうストーリーこそ映画の王道だと思う。

しかしながら、僕は天の邪鬼でもある。つまり、その王道をあえて踏み外す、パイオニアも大好きだ。
この映画は、そんな映画の道を逸脱している。
普通にあるべき物語さえ否定しているように思える。
観客が目にするのは、父と子。兄弟。家族。軸になる人間関係を断片的に切り取ったシーンである。
しかし、それら断片的なシーンとシーンが積み重なって、相乗効果を上げる作りにもなっていない。
一見すると、とりとめない映像が連なる映像詩のようだ。しかし、ただの映像美、格好をつけた実験映像という訳ではないはずだ。
何故ならば、僕はこの映画に感情移入をしたからだ。
何故、こんなとりとめない端切れのような映画に、感情移入してしまうのだ?

きっとそこにこの映画を面白いと思う秘密が隠されているのではないか。
この映画は、一見、ぶつ切りの記憶が、不規則にとりとめなく流れ出ているだけのようだが、俯瞰で眺めると、そこに突如大きな一つの形が浮かび上がってくる。
シーンシーンが積み重なり、物語ではなく、一つの集合体になっているのだ。
ドラマでなく、ある人生の一部を切り集めた集合体。。。

いや、、、人生というより、もっと遥かに大きい、巨大な生命体、ガイア、命。。。
そう、そうだ、この映画は命の集合体、「命」そのものを描いているのだ!!!

しかも、恐ろしいくらいの俯瞰から見た「命の世界」だ。
過去から現在、ミクロの細胞から、マクロの宇宙の果てまで、時空と空間を超えて、映像が行き交い、突き抜ける ───
そして、マクロなのかミクロなのかも判らなくなる。
更にこの映画が本当に凄いのは、宇宙の果てからミクロの原子までを描きながら、同時にごく普通の日常を描いていることだ。
思春期の主人公がふと出来心で隣の家に忍び込んで、お姉さんの下着を盗んでしまうシーンと、ある太古の時代、黄昏の空の下で餌を求める恐竜のシーンが共存する摩訶不思議さ。
しかもそれらは、違う次元でなく、同じ次元で、同じ価値を持っている。そこが凄い。
これまで時間の流れや存在する場所を超越した映画はあったと思うが、この映画は時間や場所だけでなく、すべての次元を超えている。
これほどスケールのでかい映画があるのだろうか。想像するしかない大きさの世界を見事、可視化しているのだ。
ガイア、命そのものを見ていたら、そこに確固たるドラマがなくても、心が動かされてしまう瞬間があっても納得できる。
どんな出来事でも、命があるからこそ、起きているのだから。

ドラマとは何か?
あらためて思う。
僕は、映画とは人間を描くものだと思っていたが、この映画は人間というよりも命を描いている。
そういう映画もありかもしれない。
瑣末でちっぽけな僕には、なんだかあまりにも大き過ぎて偉大過ぎてよく判らない命。でも素晴らしいと感じられる命。
多分ありきたりに言えば、理解するのではなく、ただ見て、感じればよいのだと思う。
ドラマを見て感動するというよりも、映像が紡ぐ命の響きに反応、共鳴するのだ。

あなたの心を、あまりに偉大な命の深淵に共鳴させてみたいなら、、、「ツリー・オブ・ライフ」にしやがれ!


追記1
ツリー・オブ・ライフ、命の木。。。木は、フラクタルの象徴のようなものだが、人間の身体の中にも、同じ世界(血管やシナプスなど)が広がっている。それと同じように、この世界は、ミクロからマクロまで、どこまでも樹の幹のように果てしなくつながっているのだ。この感想を書いてみた後、映画のタイトルの意味がすんなり入ってきた。

追記2
僕はこの映画の監督、テレンス・マリックの映画はこの映画が初見だった。なんだか食わず嫌いであったことを悔やみ、この映画を見てから、このマリック氏の映画をあらためて見てみる。「天国の日々」「シン・レッド・ライン」 ───。今度は、「ツリー・オブ・ライフ」のノリ(テレンス・マジック)を期待し過ぎたせいか「ツリー・オブ・ライフ」ほどのインパクトは味わえなかった。しかし、なるほど。美しい映画です。マリック氏が映画人達に多大な影響を与えていることに今更ながら納得。(ちなみに本作は、2012年のカンヌ国際映画祭、パルムドールを受賞している。)そこで更に最新作「トゥ・ザ・ワンダー」も喜んで行ってみる〜〜〜が、残念ながら僕はこの映画は乗れなかった。まさに単なる映像美という感じしか味わえなかった。(「トゥ・ザ・ワンダー」のやりたいことは、核心はないが、きっと「愛」でしょう。けれど、愛は命よりも前にあるから〜、という訳で、このマリック戦法で「愛」を描くのは、この天才監督をもってしても、至難の業であると思う。だって愛は女性のごとく遥かに強く美しく同時に醜く下世話でしたたかで手強いのだ)しかし、この寡作な天才監督、テレンス・マリックの次作に期待しすぎず注目したい。

追記3
この映画のチラシには「父さん、あの頃の僕は、あなたが嫌いだった。。。」とある。これはどう見てもブラッド・ピットとショーン・ペーンの濃厚な父子話に思ってしまうだろう。(もちろん、そんな映画があるなら見たい!)これは確かに集客できそうなキャッチフレーズだが、(僕もそれに騙された)そう思って映画を見た人の大半は、寝るか、腹を立てるかどちらかだったのではないでしょうか?しかし、かといって、これは"命"と共鳴する映画なんですー。という宣伝文句ではお客さんはさっぱり反応してくれなそうだ。例えば、「あなたは、巨大な"命"を目撃する!」。。。なんて、なんだか新しいエイリアンものみたいだ。

2014年1月20日月曜日

「イヴォンヌの香り」夢のような美女との恍惚な一夏



「愛し過ぎるか、愛が足りないのが人間だ」

いい。。。
イヴォンヌとの一夏の情事。
この映画を見れば、なまめかしいイヴォンヌに、思わず恋してしまうだろう。
ヒロインをエロティックに撮ることについて、この映画は完璧だ。
この映画は、限られた映画の時間から、より多くの官能的な空気を発しようとしている。
官能的な映画の極み。
上品にいやらしい、大人の映画である。

舞台はスイスの片田舎のリゾート地。
主人公は、富豪の両親の遺産を食いつぶしながら、避暑地でなにもせずにぶらぶらしているヤサ男のロシア人。
(二枚目でないのがうまい)
彼はそんな贅沢な境遇に飽きあきもしている。
そこに現れたのが自称女優の美しいイヴォンヌだ。
登場シーンがうまい。
セクシーな犬、ダルメシアンを連れて歩くサングラスの女。
見知らぬ犬はまるで飼い主かのように男の足元に座り込む。毛が短い犬の身体は裸の女を連想させる。
続いて現れるイヴォンヌ。背中が大きく開いた白いドレス。まるで美女が突如、裸で目の前に立ったような錯覚を抱かせる。
こんなシチュエーション、男なら誰もが恋に落ちてしまうだろう。

とにかく、イヴォンヌのエロティックさを魅せるシーンが素晴らしい。
例えば、湖の船の遊覧に出かけた二人。
男が8ミリカメラでイヴォンヌを撮っている。
イヴォンヌはおもむろにパンティーを脱いで男に渡す。
船のデッキの上、男はイヴォンヌから少し離れ、彼女を眺める。
湖を見つめるイヴォンヌ、風が吹き抜け、スカートがひらひらと舞う。
そのスカートの隙間から、イヴォンヌの美しい裸のお尻がちらちらと見える ───。
そのばかばかしくもチャーミングで大胆なイヴォンヌのふるまいに、くらりとめまいがするシーンだ。

しかし短い夏は終わる。
その破綻は、男が本気でイヴォンヌと生きようと思い始めたことから始まった。
イヴォンヌの叔父がぼつりと漏らす。
「その日暮らししかできない女だ」
その一言が、ほってた頭に冷水を掛ける。
なまめかしい美しさの下に潜んでいる現実の姿。
美しきイヴォンヌ、それは現実には生きれない夢の中の女なのだ。
恍惚な時間は、一時だからこそ美しい。
自らの力で糧を得ることを恐れるイヴォンヌは、一緒にアメリカに行こうと言い始めた男の前から突如消える。
エロティックとは、現実には生きられない儚い夢のようなものなのかもしれない。
浮世離れした世界にいるからこそ、イヴォンヌは美しくエロティックなのだ。

「愛し過ぎるか、愛が足りないのが人間だ」
イヴォンヌを失ったパトロンの初老の教授は、そう言い残して死ぬ。
僕は愛が強過ぎる人たちのドラマが好きだ。
愛が強過ぎる人たちは必ず破滅する。
しかし愛の情熱を燃やす人間はあまりに美しい。

だが教授のこの言葉をより理解しようと努めるなら、人には、愛が強すぎて破滅するか、愛が乏しいまま生き続けるか、恐ろしい選択しか残されていないことになる。。。
イヴォンヌを失った主人公は、火がついた心を燃やし、生を渇望したのにも関わらず、破滅することもできず、ただ萎えて呆然と佇む。
ある意味、この映画は愛を強くあろうとして果たせなかった男の悲劇なのかもしれない。

叶うのなら、夏の終わり ───
ガラガラの映画館、一人片隅に座って、幻の美女イヴォンヌを眺めていたい。
決して手にはできない美女を心ゆくまで堪能できるできるだろう。
美しくエロティックなヒロインと、短くも静かに燃え上がる、恍惚な一時を過ごしたいなら、、、 「イヴォンヌの香り」にしやがれ!


追記
本監督はフランス人のパトリス・ルコント。やはり髪結いに恋してしまう「髪結いの亭主(1990年)」も大好き。またお勧めは「歓楽通り(2002年)」。
ちなみに本作は女優さんのセクシーショットお決まりの、車を磨くシーンもあります。1994年作品。

2014年1月16日木曜日

「ペーパーボーイ 真夏の引力」のけ反るほどにおぞましい挑発的な映画



挑発的な映画 ───。
かってこんな挑発的な映画があったろうか。
下品。。。そして、あまりにおぞましい。
物語が始まり、何かノドにつかえたまま長時間、強制的に最後まで見せられたようだ。
なのに、見ることが嫌じゃない。嫌というより、どうしても目が離せない。
それはまるで陰部のように、時に猛々しく熱く、時に見るのが恥ずかしい、けれど目の前にあれば目が離せなくなる。
何かこれまでに感じたことがない妙な居心地の悪さを感じる映画だ。
嫌なことをされ続けているのに、実はそれを同時に快感に感じているとしたら、これはマゾヒスティックな体験だったのかもしれない。

ストーリーは、いい話ではない。散々な話だ。
積み重ねられるシーンは恐ろしく深刻だが、面白いのは、その深刻なシーンを言葉にすると、びっくりするほど馬鹿らしくて笑ってしまえるようなシチュエーションであることに気付く。そのキャップの蓄積が、やがて爆発する!それが、この映画が今までに見たことがないような、けだるく且つじっとり熱い独特の緊張感、面白さを醸し出しているのだろう。しかも事件の当事者のように登場人物のこっけいな様を見守ることになる観客は、その馬鹿げた展開にも関わらず、登場人物のあまりに真剣なアクション、リアクションに、笑うことができない。唖然として、ただ我慢して見守るしかないのだ。(このシチュエーションはコーエン兄弟の映画に似ているが、違いを上げるとすれば、その真剣でこっけいなことをする様を笑えずにドン引きし続ける面白さとでも言おうか)

具体的なシーンで言えば、例えば、ニコール・キッドマンが、死刑囚のジョン・キューザックと面会する時、二人は離れたまま触れることなく、性交を遂行する。(離れたまま、一切交わることなくやるセックスというものがあるのだ!)具体的には、ニコールを視線と言葉とオーラで挑発し、セクシーな態度をさせながら、Jキューザックがマスターベーションをするというもの。
中年の金髪女性がボディコンで男を挑発、圧倒するというニコールは、恐ろしくも美しく、下品だがセクシーである。画面から匂い立つ汗と体臭、精液の匂いが見るものを困惑させる。わたしたちは、それを傍らから見ている主人公同様に、二人の凄まじい情念に圧倒されて、正視することも、目を背けることもできず、気がおかしくなりそうになる。(ニコール・キッドマンは、この一歩間違うと見ることさえおぞましい危険な人物に品格を与えていて、とにかくその演技が素晴らしい。こんなスゴイ役を演じるだけでも凄いが、まさにニコールは女優!足下にひれ伏します!!)

もう一つ、印象的なシーンがビーチ。主人公の青年がくらげに刺されて、アレルギーでショック状態となるが、ニコールがおしっこを掛けて救うというシチュエーション ───。
くらげの毒で死にかけた青年を、おしっこのアンモニアで中和することで、命を救ってくれるのだが、
「倒れた男にまたがり、命がけでおしっこをかけるニコール・キッドマン」
、、、と聞くだけでめまいがする。みたくないけど、見てみたい。ニコールが、本当にそんなシナリオを演じてくれるのか? 合成でもそんなことお断りだと言われるんじゃないかと、極東のしがない観客が詰まらない心配をしてドキドキしてしまう有様である。また、そのあまりに格好悪い"くらげおしっこ事件"を、主人公の父で地方新聞のオーナーが、記事として掲載してしまうバカバカしさはもう卒倒ものである。

だが、話が進むにつれ、映画で起きる事件は、益々絶望的なものになってくる。その事件がバカバカしいほど、笑いが引きつり、恐怖に陥る。事件の核心は、プアホワイトが住む森の奥の沼地に秘められている。沼に入っていくだけでも嫌だが、その薄気味悪いじめじめした沼地で起きる殺人事件。。。クライマックスの事件は、あまりに悲劇的で、主人公は生きることに絶望するほどの壮絶な体験をすることになる。

うだるような真夏の夜、暑くて気がおかしくなってくるような気分な時は、この「ペーパーボーイ」をオススメする。
あなたは世界の暑さを忘れ、言葉を失い、ただただ途方に暮れるだろう。
そして、わたしたちが普段日常で行っているあやゆる行為は、あまりに些細なことで意味がなく、いっそ全部捨てて、沼地にでも引っ越してしまったた方がいいかもしれないと思い始める。誰かに殺される前に、いっそ自ら気が狂ってやるのだ。素早く、そして正確に。。。

夏の夜、言い知れぬ絶望にどっぷり浸りたい時は───、「ペーパーボーイ 真夏の引力」にしやがれ!




追記1
監督はリー・ダニエルズ。この監督さんの映画は初見。ほか役者さんは、マシュー・マコノヒー。主役のザック・エフロンも頑張っている。

追記2
映画とは関係ないが、僕からノーベル文学賞を贈りたい開高健の小説「夏の闇」も、このペーパーボーイ観賞に似たようなエモーショナルをかき立ててくれる。つまり眠ぐるしい夏の夜に最高にオススメの一冊である。今は冬だけどね。。。(こちらはすこぶる高貴な一品です)

2014年1月10日金曜日

映画にしやがれ!2013年ベスト5


1位 わたしはロランス

2位 ペーパーボーイ 真夏の引力

3位 オン・ザ・ロード

4位 ジャッキー・コーガン

5位 悪の法則

次点 夏の終りヴァン・ゴッホ、LAギャングストーリー



2013年!
5、6年ぶりに映画を沢山みれた!これは本当に嬉しい!
子供が小さかったことなどもあって、だいぶ映画から遠ざかっていたが、2013年はベスト5が言いたくなるくらいに見ることができた。
そして驚くことに見た映画のほとんどがよかった。感動した!これは凄い!素晴らしい!と思う映画に沢山出会えた。
映画を作ってくれた方、見せてくれた方に感謝感謝です。

総評としては、2つ。

一つは、驚いたことに、これまで見たことないイカス映画に数多く出会えたことだ。
ベスト5は、今までの映画を乗り越え、新しい映画の表現に挑戦してくれた映画たちだ。

1位と2位の監督作品は共に初見。ペーパーボーイを見た時の衝撃は、映画館で受けた久々の衝撃だったが、ロランスがそれを越える衝撃を与えてくれて、本当に身震いした。
3位、オン・ザ・ロードは実際に若い時に見ると印象が違った映画になるだろう。

4位、ジャッキー・コーガンのアンドリュー・ドミニク監督の、ジェシー・ジェームズの暗殺もよかったが、そこで期待した映画とはまたガラリとスタイルの違う映画を見せつけてくれて嬉しい。何か起きそうで、起きそうで、結局起きない。。。そこまでの緊張感を楽しむ映画って、天の邪鬼の僕には受ける。これは見た時の面白さより、見た後の余韻の効果が高くて上位。

5位、悪の法則。説明を思いっきり削ぎ落とし、あるディテールだけに強烈な光を当てて、そこから大きなイメージを描こうとする全く新しいスタイルの映画で、これもよかった。これは今の時代じゃければ、何これ?という映画になるかもしれない。過去に沢山の傑作があって、その上にあえて新しい映画の描き方を築こうとしているその意気込みが嬉しい。流石、リドリー・スコット監督!新しい映画の境地に乾杯である。

夏の終り、久々に邦画で大好きな映画に出会えてよかったが、あまり評判がよくないようで残念。あえて説明せずに語る映画の美しさが僕は好きだ。いちいち全てを説明しようとするドラマのスタイルが、映画のキャパを狭めているような気がする。。。
ヴァン・ゴッホ、傑作だが、辛い映画でもあるので、何度も見れなそう。
LAギャングストーリー、ヤクザな警官が格好いいって、これは30年前なら傑作になったのでは?エンターテイメントとしても楽しめた一品でした。

総評のもう一つ。大好きな巨匠たちの映画を久々に見れたことに感謝!

なんといってもベルナルド・ベルトルッチ監督!孤独な天使たち。
身体を悪くされたこともあり、およそ10年ぶりの映画。ラストエンペラー以降、ずっと映画館で見て来たファンにとって、映画館で監督の新作が見れることは大きなイベントであり一つの儀式である!内容は大人になりかけた若者の話でまた驚いた。70過ぎて、しかも久々の映画なのに、若者の気持ちを描こうだなんて、やっぱりベルトルッチは凄い!

それからパオロ、ヴィットリオのタヴィアーニ兄弟監督。塀の中のジュリアス・シーザー。
こちらはベルトルッチの更に先輩、既に80歳を過ぎたイタリアの巨匠なのだが、これまたなんとパワフルな映画であったでしょう!高校生の時に深夜テレビで放映されたカオス・シチリア物語に憧れ、大人になってシチリア島に行って、映画が撮影されたラグーサという古いイタリアの町並みを歩いた時の感激が思い出される。

それからそれからレオス・カラックス監督。ホーリー・モーターズ。
ポーラXからは10年以上ぶり。これまた高校生の時、汚れた血に感化されて以来のファンだが、久々の期待を裏切らずにやってくれました。ポーラXにはうんげりしたけど。わけがわからないけど、突っ走る!とにかく突っ走る!人とは逆に突っ走る!その他人にはできない突っ走りでちゃんと映画を作ったカラックスは偉い。カラックスよ、また10年後に映画館で会おう!

おまけ、タランティーノ監督のジャンゴ 繋がれざる者。
映画は残酷すぎて気持ち悪くなったけど、人に好きと公言しずらい映画をあえて撮るタランティーノの生き様が好き。それから凄いピンチを作って、それを乗り越えていくシナリオにいつも唸らせられる。タランティーノ、彼はピンチ脱出のイリュージョニストだ!

いやーっつ、久々、まるで高校生に戻ったように映画で興奮してしまった一年でした。
では、また、2014年も、映画にしやがれ ───!

「ふたりのベロニカ」 生を刻む瞬間。やがて失われる人生の美しさと哀しさ



とても大切なのに、その記憶は消え去ろうとする ───。

この映画を最初に見た時の記憶は、とても曖昧だ。
印象的で、一瞬で一目惚れした映画のはずなのに、見終わった瞬間、消えてなくなってしまったような感じだ。
とても大切なのに、愛しいのに、、、離れてしまった途端、その想いとは裏腹に、全てを忘れてしまう。。。
「ふたりのベロニカ」
とても不思議な映画だ。
それから何度もこの映画を見た。けれど何度見ても、この映画は夢のように消えてなくなってしまう。
目にしているのに、見えていなくて、逆に、目に見えないものを、見いているような、なんとも形容し難い余韻だ。そして余韻だけがエコーのように増強していき、ふと描き消える。。。
でも消え去ってしまうのが、嫌じゃない。
人生は、やがて消えてしまう。だから美しいのだ。
ただ、ただただ美しい。
本当に美しすぎる映画だ。

映画には二人のベロニカが登場する。
一人のベロニカは、ポーランドに住む。髪が長い。
音楽学校でピアノを専攻している。
その歌唱力を見込まれ抜擢された晴れ舞台、歌っている最中、観客の目の前で心臓の病に倒れ、そのまま帰らぬ人となる。
もう一人のベロニカは、フランスに住む。髪が短い。
やはり音楽をやっていて、音楽の教師だ。そして同じように心臓を煩っている。
二人はうりうたつだ。音楽の才能がある。心臓が弱い。はつらつして知的で、そして美しく愛らしい。
ただ二人は遠く離れて暮らしている。お互いの存在を知らない。
しかし一人のベロニカがもう一人のベロニカを目撃し、やがてもう一人のベロニカももう一人のベロニカが死んだことに気付く。
すると二人の死と生が交わる。
二人のベロニカを演じるイレーヌ・ジャコブに圧倒される。彼女はまさにミューズ、ミネルバだ。

この映画を見ている時間は、自分がもう一人のベロニカ(第三のベロニカ)になった錯覚にとらわれる。
それは幽体離脱した自分が、寝ている自分を見下ろすようなイメージとでもいおうか。
そして、ベロニカの傍らで、ベロニカの生きているその瞬間、瞬間を目にするのだ。
髪の長いベロニカが、舞台で歌っている最中、突如倒れて死ぬ瞬間 ───。
髪の短いベロニカが、舞台裏の人形師と鏡を通して目が会う瞬間 ───。
駅の構内にある喫茶店でベロニカを待ち続ける人形師を見つけた瞬間 ───。
旅の写真の中にもう一人の自分を見つけ、そのもう一人はもう既に死んでいると悟る瞬間 ───。
それは、やがて失われる人生の美しさと哀しさ。
生を刻む瞬間である。

この映画は、あまりに美しい生の瞬間に満ちている。
その瞬間、瞬間に、あらゆる不思議が込められている。
人と人が出逢うことの不思議。
人生を生きていることの不思議。
人が死ぬことの不思議。
人間という存在の不思議。
自分が生きてる前も、死んでからも、世界が動き続ける不思議。
不思議で、美しく哀しい、今、この瞬間。
この映画は何も語らずに、全てを語っている。

生きている瞬間、瞬間、瞬間を生きる ───。
人が生きる瞬間を積み重ねるように、この映画は、人生を刻んでいる。
これは生を刻む体験だ。

本当に素晴らしい人生の瞬間、映画の瞬間を心に刻みたければ、、、「ふたりのベロニカ」にしやがれ!

追記
本作は1991年の公開。ポーランド出身のクシシュトフ・キェシロフスキ監督は、1996年、惜しくも心臓発作で帰らぬ人となった。キェシロフスキ監督の映画は、素晴らしい映画を数多く残してくれている。旧約聖書の十戒をモチーフにした「デカローグ」、ジュリエット・ビノシュ主演の「トリコロール/青の愛」の悲劇も美しいが、同じイレーヌ・ジャコブを迎えた「トリコロール/赤の愛」の情熱もまた狂おしく素晴らしい。且つこれらサウンドトラックも感激の一品だ。また残された脚本も映画化されており、その一本「ヘブン」もまた美しい映画である。