2013年10月28日月曜日

「リービング・ラスベガス」真っ当に生きれない男と女の切ない愛


家族も仕事も、全てを酒で駄目にしてしまったアルコール依存症の男が、最後に一つだけ人生でやりとげようと決意したこと ─── それは、酒を呑んで死ぬことだった。
そして死ぬために選んだ地、ラスベガス。そのベガスで一人の娼婦と出逢い、恋に落ちた、、、

これは死を決意した男の話である。

死ぬことが主人公の使命なんて、なんて後ろ向きな話だろう。
一般的に、ストーリーの主人公は困難を克服し成長する。観客は、その主人公がチャレンジする姿に共感し、物語に秘められた大きな使命が果たされた時、カタルシスを得る。
この話の主人公、ベンも、幾多の困難(問題)を克服し(乗り越えて)?見事に酒で死を果たす。だが、流石にその使命が果たされてもカタルシスは得られない。あとに残るのは行き場のない虚しさだ。
アル中になって酒で死ぬことを賛美することはできないし、反社会的なものを目指していない限り、アル中の死は格好よく描いてはいけないはずだ。

しかしこの映画は格好いい。
アル中のベンの死に様にぐっと来る。
その救いようのない生き方しかできず、のたれ死ぬはずのベンに光を当てるのは、娼婦、サラだ。

サラも傷を負っている。
サラは、娼婦として生きている自分の人生に絶望していた。しかし、ベンのように割り切れてはいない。自分が娼婦であることを否定もできず、その仕事を営み、いい家に住み、それなりの生活をして生きている。
日々の心の痛みは、なんとかやり過ごせるし、死ぬほど辛い訳ではない。そんな微妙な毎日がただひたすら過ぎて行く。。。
いつかサラが、映画を見ている自分の投影にも思えてくる。
そんな、ただ漫然と生きてしまっているサラだからこそ、死を全うするために真剣に生きているベンに強く惹かれてしまう。
それが間違った生き方だったとしても、、、

だからサラは、ベンに死が訪れた時も必死にそれを受け止めようとする。ベンの唯一の願い、酒を呑んで死ぬことが果たされたことを認めることこそ、ベンの生き様を認め、彼の人生を肯定することになるからだ。しかしそれは到底できない。愛する者の自虐的な死を祝福できる者はどこにもいないのだ。

僕たちは生きている。
でもそれはただ死んでいないからだ。。。
これは強く正しく生きれない弱い人間同士の切ない愛の物語だ。
毎日を、生や死と、真剣に向き合って必死に生きることはとても厳しく、険しい道のりだ。
誰もが毎日をそんなに強くは生きれない。
生きていることに自信が持てなくなった時、きっとこのベンの正しくない生き様が、サラと同じように静かに強く心に響いてくる。
ベンの人生は間違っている。
しかし本当に自分の人生はベンよりマシか?
自分の人生を本当に全うして生きているのか???

ただ死んでいない日々を送っているとはたと気付いた時、落ち込んで心細くなった時、なんだか心が震えて誰かに静かに黙ったまま付き合ってもらいたい時、ベンの生き様を見たら、少しだけ勇気づけられるかもしれない。

そんな、強く生きることにちょっぴり疲れて切ない気分の時は ───「リービング・ラスベガス」にしやがれ!

追記1
この原作を書いたジョン・オブライエンは、この映画の通りアルコール依存症で、この原作を書いた後自ら命を絶っている。正に自分の命を削り、心血を注いで書き残した命の脚本である。合掌。

追記2
本作品は、主演のニコラス・ケイジが、1995年のアカデミー賞、主演男優賞を受賞している。ニコラス・ケイジといえば、やはり薄い髪の毛と厚い胸毛。匂い立つ男、ナンバーワンである。本作のようなダメ男から、「ザ・ロック」のような大作のヒーローまで幅広くこなせるツワモノの一人。ほかに「月の輝く夜に」「ワイルド・アット・ハート」も素晴らしいです。

2013年10月21日月曜日

「夏の終り」静かにたぎる情念の愛



白と黒、切り絵のような、美しい夜の田園 ───。
その実写が、染め物の模様に切り替わる。
藍色の夜、白く光る棚田を、これまた真白い月が静かに見下ろしているのが判る。
とその画が真ん中でとぎれて揺れる。染色の暖簾が風に揺れたのだと判る。
その暖簾を見つめている知子がいた。
彼女は染色家だ。
と、突然知子はその美しい暖簾に染色の液を叩きつける。
泣きわめきながらせっかく完成させた美しい暖簾をズタズタにしてしまう。
そして暖簾と共に崩れ落ちる。
暗転
「この家息苦しいのよ ───」
暗闇の中から聞こえる悲痛な嘆き。。。

静寂と怒濤が一瞬にて交錯する。
息を飲み込む。。。

原作、瀬戸内寂聴。監督、熊切和嘉。昭和30年代を舞台にした映画、夏の終り。
上記は、主人公の女、知子が、惚れてしまった二人の男たちと、その男達と惰性的な生活を続ける自分自身にうんざりし、どうしようもなくやるせなく、行き場のない想いに破滅的になる瞬間を描いたシーンである。
これらが、説明的なセリフではなく、ひとつひとつの画と行動をつむぎながら、心情を丁寧に織り込んでいく。
この映画は、全編に渡り、そんな映画的な語り方にこだわり、観客を映画という時間で満たそうと汗をかく、一途な映画である。

映画は、この主人公の女一人と、彼女の愛人の男二人の三角関係を描く、愛の物語だ。
情事のシーンはあえて見せない。けれども静かに空気が色気立つように作られている。
主演の満島ひかりがたまらなくいい。
細身だが凛として力強く、艶やかに、二人の男を同時に愛してしまう女を演じている。
満島の年齢は作中の人物設定より10歳ほど若いため、若干その年齢を経た熟れた色気は物足りない。だが、逆に彼女が持つあるあっけらかんとさばさばした一面が、この映画に明るい好感を作り出している。
この設定で、女を情が深く、どろどろさせてしまうと、安いメロドラマのようになるが、そのぽーんと弾けたさばさばさに救われるのだ。

三角関係は、日常に埋れ掛けていた三人の心を熱くさせ、輝かせるが、当然長く続かない。
そんな知子が、長年付き合い続ける妻子持ちの愛人、慎吾との関係の行末を案じ、思い切って慎吾が妻子と暮らす家を訪ねるシーンが特にいい。
道に迷いつつ正妻の家に向かう知子。夏の暑い陽射しが落ち、日本家屋が並ぶ裏路地に立ち尽くす白い着物の知子が美しい。
迷いに迷ってようやく見つけた家の軒先に、慎吾が知子の家と同じたたずまいで猫を撫でている。
慎吾が知子に気付き、無言で固まる。その顔をあえて格子戸の柱で隠し、静かに動揺する愛人の気持ちを表す。慎吾が見知らぬ人のように見えてくる。その居心地の悪さ。愛する男が急に詰まらない男に見えてくる。
これら一連の心の動きを映像だけで静かに語るのも潔く気持ちがいい。
しかし結局、妻子は外出していて、何も起きない。覚悟を決めて出てきたのに、その気持ちのやり場に途方にくれる知子。お茶を出す慎吾の先に、知子が家に置いたのと同じ形のサボテンが申し訳なくあって、愛人が一層憎らしく見える。

この映画は、行動や発言と気持ちが解離している人間の不思議や、日々暮らしている中でちょっとした人生の機微(きび) を次々と垣間見せてくれる。劇的ではないけれど、人生を揺り動かすささやかな瞬間を見事にとらえた、大人の映画だろう。
表面からは隠れた微妙な心の動き、息遣い、汗や匂いが、静かに熱く伝わってくる。これは、くるおしい、微熱の映画なのだ。

人は、人の心を思いやらなければならない ───。

もし、あなたが自分の男女の関係に刺激が欲しいと感じていたら、この映画をオススメする。
日常に埋れていく自分に、変化を求めはじめる知子のさばさばとした覚悟と勇気に、きっと励まされるだろう。

静かに、けれど激しく、ときめきたいあなたは、「夏の終り」にしやがれ!


余談:
家庭を持つ愛人、慎吾役の小林薫は、学生の時に見た森田芳光監督「それから」の時から年を取っていないのではと思わせる若々しさ。もう30年近く前の映画なんですけど。。。この「夏の終り」よかった方は、こちら「それから」もオススメです。
また夏の終りは、衣装、ロケーションもとても素敵です。



2013年10月17日木曜日

「わたしはロランス」美しく燃え盛る男と女



美しい ───!完璧に。
人間の美しさを、みせつける、完璧に美しい映画だ。

人を美しくするもの ───、それが何かを、考えさせられる。
人を美しくするもの、それは人の心だ。
人の心がその人の容姿を美しく作り上げる。
そして、その美しく激しく熱く燃える心と心がぶつかり合う。
そう、これは愛の物語だ。
愛するために、愛する人とすれ違う、哀しく狂おしい愛に圧倒され、打ち震える。

この映画には引き込むような強い眼差しに溢れている。
冒頭のシーンをはじめ、ぶしつけに注がれる眼差しが、黙ってこちらを威圧する。
その眼差しはロランスに注がれている。
35歳、大学?の国語教師であるロランスは、性同一性障害から女として生きることを決めた男だ。
彼は、同棲する彼女のフレッドに、35年間秘めていた秘密を打ち明けた。
今ロランスは晴れて女のいでたちで街へ出たのだ。
判りやすく言えば、女装をしたおじさんだ。
彼(彼女)が、これまでの短髪のまま、化粧と女装だけをして大胆な告白に挑むのも潔くていい。
彼は長年秘めて来た秘密を一遍にさらけ出し、闊歩する。
みなの反応におののきながらも、やがて再び生きかえった花のように誇らしくみずみずしく美しく輝いていく。
その時の緊張から爽快感へと一気に飛躍する気持ちよさったらない!!

だがその爽快感は長くは続かない ───。

女になりたかったロランスを愛する彼女のフレッドは、男性であるロランスを愛している。
男が好きなのに、自分の男が女になろうとしてる、、、その戸惑いと絶望感。
女になりながらも、女のフレッドを愛しているロランス、本当の自分を素直に受け止めてもらえない恐ろしさと孤独感。
二人の愛は行き場をなくし、怒り、嘆く!どうしたらいいのか、解決できず、二人は怒濤のようにぶつかり、そして傷つき、別れる。。。
おお、愛してる!なのに愛したくない!
愛せない!愛されない!もう、どうしたらいいのーッ!
設定、脚本、演技、演出、本当に文句のつけようがないほど見事だ。

更にこの映画の、圧倒的な映画的な美しさも見逃せない。
全編に渡り素晴らしいシーン、ショットであふれているが、特にクライマックス、ロランスと別れ、家庭を持った暮らしをおくるフレッドが、ロランスから送られた彼の詩集を読まずにはおれない。そしてその読んだ詩に打ちのめされた彼女に、頭上から滝のような水が降ってくるショットにクラクラする!そして、フレッドがロランスに手紙(あなたは全ての境地を突き破った。あとは木の扉だけ・・)を送り、フレッドの元に駆けつけるロランス、二人が稲妻のように再開、結ばれる。続いて逃避行先の地、イル・オ・ノワールで歩く二人を祝福するように女性のカラフルな服が舞い降りてくるショットまでの幸福感に、完全にノックアウトとなる。そしてその夢の時間の後に一気に押し寄せて来る現実。。。本当にたまらなく、うなるほど素晴らしい!
映画を見ている間中、まるで自分が出逢った素晴らしい映画に恋に落ちてしまった高校生の時のような、純で熱いムンムンする気分が沸き上がってきた。
人生って素晴らしい!人って美しい ───!

だが本当に一番驚いたのは、こんな大人の愛の傑作を撮った監督が、まだ24歳の若者で、しかも3作目、デビュー作は19歳で男前で色男で主演もしているという逸材であることだ。更に彼自身のオリジナル脚本である。(どうしてこんな大人の男女の会話がつらつら続く映画の本を24歳で書けるのだ!?)
正に天才!この監督さん、グザヴィエ・ドランには映画の神様が神々しいくらいに宿っています。
おお、映画の神様ありがとう!
この天才が若死にせず、まだまだ映画の傑作を生み出していくことを願わずにはいられません。

僕は映画の奇跡を見た。どこまでも美しい映画で、どこまでも人は美しくなるべく精進するべきだと思い出させてくれた。
僕らはいつでも、鏡を見て、自分が美しいかを確かめる必要があるだろう。
そして、心がちゃんと美しいか、確かめるべきだ。
それから、その現状を素直に受け止め、謙虚に心を磨くべきなのだ。
いつでも、自分であるように。
さあ、億劫な足を前に出して、鏡を視に行こう。

自分も、美しくなりたい!
汚れた心を洗い流して清めたい!と思ったなら、とにかく ───、わたしはロランスにしやがれ!

2013年10月16日水曜日

「シェルダリング・スカイ」強すぎる愛の旅



愛が強い。
愛が強過ぎる。
心がふるえる。
なんて素晴らしい映画なんだ。。。
これこそ映画だ!!!

監督のベルナルド・ベルトルッチ曰く。
これは複雑なカップルの単純なストーリーだ。二人は互いに激しく愛しているのに、幸せになれない。

時は1947年 ───。
喧騒の都会を離れ辺境の北アフリカを訪れた主人公夫婦のポートとキット。二人の愛はすれ違い、やがて行き場を無くし、砂漠を彷徨い始める。

生活から遠く離れた美しく荒々しいアフリカの地。
旅を続ければ続けるほどに二人は悲劇の運命に突き進んで行く。

この映画の素晴らしさは、主人公たちの複雑な感情が説明のセリフやナレーションなしに、眈々としたストーリーと演出による映像によって、ジンジンと伝わってくるところだ。
わたしたちは、ここに居ながら、遥か遠いアフリカの焼け付く砂漠の砂塵を感じることができる。
アフリカに着いたその晩、売春を行うジプシーの見張りの男たちに捕まるポート。
ポートが病気になった街で、迷路のような街中を走りホテルを探すキット。
病に落ち熱にうかされてアフリカのトランスに落ちる踊りを夢見るポート。
どんどん裸になっていく二人。
熱にうかされたような二人。
全てを捨て去っていく二人。

これは哀しい旅だ。
なのに、僕はこの旅がいつまでも続くことを望んでいた。
旅を続け、悲劇に陥るほど、愛が強まるのだ。
二人の焼け焦げてなくなりそうになりながら、激しく鼓動し続ける感情が、画面からほとばしる。

だが、強い愛の行き着く先は、死という恐ろしい別れであった。
死の間際、ポートはキットに告げる。
「ぼくはきみのために生きている。やっと気付いた」
そんなこと言いいながら死ぬなよ!
キットはポートの死に、自らの存在価値を見失う。
旅の途中、一人きりになってしまうキット。恐ろしさに呆然となる。

偶然、ラクダで物資を運搬する男たちに出会い、一団に加わり、再び砂漠の旅をはじめる。
これがトラベラーの本当の始まりだった。

魂が抜けたキットを受け止めてくれる砂漠の、圧倒的な美しさといったらない。
同じ砂漠の景色が、二人のドラマによってどんどんと変わって行くのを目にして、本当に感激してしまう。

原作のポール・ボウルズ曰く。
空は明るいと思われているが実は黒い
空の向こう側に行けばわかる
空を信じてはいけない
人類を闇から守ってるというだけだ
空の向こう側は闇だ

ぼくらはどこからきて、どこにいくのだろう。
ぼくらは満月をあと何回見れるだろう。
1000回?
500回?
確実に判っていることはその数は無限ではないことだ。
わたしたちは、生きる術を求め、ポートとキットのように、このまま帰らない旅へ旅立ってしまうべきなのか。
自由に生きることほど難しいものはない。

キットのように、失ってしまうなら愛などいらないのだろうか?
答えはNoだ。
いかなる時も人は愛し続けなければならない。
強く、どこまでも強く。

人生に迷ったのか?
Yes
ならば「シェルダリング・スカイ」にしやがれ!



2013年10月15日火曜日

「パリ、テキサス」不器用な愛の映画



愛しているのに一緒にいることができない、、、
これは不器用で哀しい家族の映画だ。

家族を愛する男がいる。
彼は愛がとても強い。でもその強い愛のせいで逆に家族を不幸にしてしまった。
心を痛めた男は、やがて愛する家族から一人去っていく。
 

パリ、テキサス
ヴィム・ベンダース、ロードムービーの傑作である。

この映画をはじめて見たのは19歳の時。三鷹の名画座だ。

記憶を無くし行方不明になっていた一人の男、トラビスと、まもなく10歳になる息子が、6年ぶりに再会した。
離れ離れになっていた3人の家族。
トラビスは、息子と共に別れた妻を探す旅に出る。

台詞は僅か。静かに進行するストーリーに、時折ライ・クーダーのスライディングギターの音が、登場人物たちの震える心の叫びのように聞こえてくる。

ラスト、一度は離ればなれになった家族は、再会しその絆を確かめ合う。でも彼は再び妻と子の前から去ってしまう。
トラビスが妻と子から去って行くことも、はじめて見た時は気付かなかったかもしれない。
まだ子供だった僕は、正直この主人公トラビスがとった行動がよく判らなかった。


やがて家族を持ち、自分の命が、自分だけのものではないこと。自分よりも大切な人がいるということを知った。
いつかトラビスが家族の元を去った訳が判るようになっていた。

飾り気がない、恐ろしく淡々とした地味な映画。
でもこの映画は、僕の最も愛する映画の一つになる。
そして今、このトラビスの静かな苦しみを一層痛くリアルに感じることができる。

トラビスは自分の理性をコントロールできない男だ。
時に激興して家族を傷つけてしまう。
それでも家族は、トラビスと一緒にいることを望んでいた。
トラビスも、深く家族を愛していた。
再び家族と暮らし始めることで、また昔のように家族を傷つけてしまうかもしれない。。。
だからこそ、家族を傷つける自分を許せなかった。
そして再び家族の元から姿を消す。
それが不器用なトラビスが唯一できる精一杯の愛情表現だったのだ。

あまりに勝手だ!
自分勝手過ぎる。
家族を捨てる。よくいえば家を出て行く。
愛する者の前から、去らなければならない。
それが家族の幸せを得るための一番の選択だなんて、、、
愛し過ぎるために、愛する家族と一緒に過ごすことができないとは、なんて哀しい話なんだ。
家族もまたトラビスのことを愛している。
だから妻はトラビスが家族の元から去ることを知っている。
あえて止めない。いや、止めることができないのか。
家族が別れ離れになる、それが家族にとっての一番のハッピーエンドだなんて、あまりに切ない。
この映画のトラビスの旅は、家族を壊したことへの彼なりの償いであり、最後の別れは、妻と子を愛するが故の、身勝手だが勇気ある決断なのだ。
それはトラビスにとってハッピーエンドでないだろう。
愛が強すぎるトラビスの生活にハッピーエンドは訪れない。
この先、自分の知らない地球のどこかで、妻と子が強く逞しく生きていければ、それでいいのだ。
自分自身の気持ちや幸せよりも、家族の幸せを何よりも優先しようとするトラビスの勝手で一途な愛、男の意地にぐっと来る。
己の幸せは、自分の内側ではなくて、自分の外側にある。
泣ける。
たまらないほどに、、、

人生は杓子定規にはいかない。
これは不器用で美しい愛の映画だ。
トラビスの我がままな愛の強さを否定できない。

じっと黙って見て、静かに泣きたいなら ───
パリ、テキサス」にしやがれ