2013年12月10日火曜日

「サクリファイス」世界を救うための敬虔な祈り



明日、世界が終わるとしたら、私たちはどうするだろう?
もしその世界の終わりを自分を犠牲にすることで防ぐことができるなら、自分は立派にその使命をやり遂げることができるだろうか?

サクリファイスは、突如戦争が勃発した日のあるありふれた田舎の一家を描く。

映画のタイトルは犠牲。
監督のアンドレイ・タルコフスキーが描く犠牲は、アルマゲドンのような英雄的なものではない。
戦争について詳細は一切語られない。描かれるのは世界の終わりに対峙して、戸惑い嘆きうろたえるごく一般の人たちである。
主人公の一家も世界の終わりが来たとおののき、打ち拉がれる。しかし主人公は自分の子供、そして世界の人を救うために魔女だと噂される女に知恵を求め、やがて救済の生贄として自分の家に火を放つ。
彼は狂ったのか、それとも世界を救おうとする聖人なのか。

この映画には普通の映画にはない、何かが宿っている。
タルコフスキーの映画、、、それは神を宿した「聖なる映画」だと僕は思う。
人は、人々の罪を背負いを救うために死んだイエス・キリストのように生きれるのか?
タルコフスキーはそんな大いなる問いを問い続けた人間だった。
しかし当然普通の人間はイエスのように生きれない。
でも、それでも人間にはイエスのように生きれる魂を、どこかに秘めているのではなかろうか。
それがタルコフスキーの願いであり、描きたいことであったように思えてならない。

サクリファイスの主人公が神に対してとつとつと救いを求め語り祈る長回しのシーン───
主人公が、まるで見ている私たちに救いを求めているような錯覚を覚える。
あまりに切実な願いに、何もできない我々は逆に戸惑い、あまりの緊張感に耐えられなく、逃げ出したくさえなる。
その大真面目な祈りに身の毛がよだつ。
タルコフスキーの映画は全てが神への畏敬の念と、深い、恐ろしくどこまでも深い愛に満ちている。
映画を見終わった直後、自分の日常の些末な欲望がチリチリと焼けて消滅してしまう。
普段の自分はなんて細かくてつまらないことにぐじぐじしているのだろう。
自分や家族、周囲の仲間はもちろん、世界に役立つために自分に何ができるか?
を真剣に考え、実行するべきなのだ。
聖書が単なる書物ではないように、タルコフスキーの映画は単なる映画ではない。
タルコフスキーは、映画を、人々の感情を揺り動かすドラマの枠を超えて、心よりどころとなるような聖なるものへと高めようとしていたのではないか。

サクリファイスを見た後は、見る前とは違う人生を歩まなければならない。
でもそれは簡単ではないだろう。
私たちは、例えイエスの決断が素晴らしいと感じていても、イエスのようには生きれない。
私たちを突き動かすこのイエスの決断とはかけ離れた日々の欲望を否定はできない。
その欲望こそ人間が生きる源だからだ。
タルコフスキーだって完全聖人ではないだろう。
だからこそタルコフスキーは深い愛を込めて映画を撮り続けた。
タルコフスキーはまさに命を削って映画に命を吹き込み、神に召され若くして死んだ。
タルコフスキーの映画は娯楽とか芸術とかを越えている。
生や人生を問う手段。
まさしく敬虔な祈り。
タルコフスキーの命、祈りそのものなのだ。
だからタルコフスキーの映画は、映画自体が生きて、静かに鼓動を打っている。
フィルムを切れば血がしたたり落ちてくるだろう。
まさに魂が宿った映画だ。

もしあなたが日々の業に埋もれてしまっていたら、一人落ち着いた時間を作って、じっくりとタルコフスキーの映画を見てみて欲しい。
時には大真面目になって、日頃の業を洗い流し、人間が生きることについて静かに想いをはせたい。
そんな時はまず、自分が世界を救うために何ができるかを問いかけてくる、「サクリファイス」にしやがれ!

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